「ハコ」を見に行く

丹羽研究室の修士課程3年目、今年は修論執筆に挑む半田です。

皆さん、「ハコ」を見に行ったことはありますか?

普通、箱というのは何かの容れ物で、大抵の場合、箱そのものにはほとんど実質的な価値はないように思います。中身を食べたお菓子の空き箱なんて捨ててしまうわけですし。

しかし、実は私は今年の1月に、空っぽの「ハコ」を見に行きました。

渋谷区立松濤美術館で開催された「白井晟一 入門」展。建築家・白井晟一に光を当てたこの展示、前期と後期に分けて開催され、前期は展示品によって構成されたいわゆる通常の展示でした。しかし、変わっていたのは後期。なんと展示室は空っぽ。「美術館」を見せること、それ自体が展示でした。

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そう、何を隠そう、松濤美術館は白井晟一の手がけた建築の一つだったわけです。

実は流通がストップし、海外から多数の展示品を借りてくることが難しくなったコロナ禍以降、こうした展示はいくつか見られるものとなっています。

2020年7月~8月に開催された世田谷美術館「作品のない展示室」はそうした試みの恐らく嚆矢となる展示だったのではないかと思います。展示品が借りて来られないのであれば、普段は見せることのできない、展示をする場所としての美術館の機能や、一つの建築作品としてのピュアな姿を見せればいいのではないか、という発想の転換なわけです。
いま、静岡県立美術館でも「大展示室展」という展示が開催されています。こちらは作品を入れるケ一スや移動壁、台車、照明などまさに「展示を作るための機能」の方に着目しているようです。

なんだか狐につままれたかのようなというか、口先で言いくるめられたかのようなというか、雲を掴まされたような気持ちになる方もいるかもしれません。特に美術館機能の説明がされているであろう「大展示室展」に比較して、「白井晟一 入門」展は本当にただそこに美術館があるだけだったのです。

しかし、それは本当にいい体験でした。

ライブハウスや劇場のことをよく「ハコ」と呼んだりしますし、ひとまず公共施設を建てるという政策はハコモノ行政といって批判されたりするわけですが、まさに建築という分野は何かの容れ物でありハコです。ハコであるからには用途があり通常は中身が配置されています。

美術館というハコもまた、美術品が置かれることが前提のハコ。美術品を見せることに特化したスペース……であると同時に、多くの美術館は名のある建築家たちの手によって作られた「空間の美」を併せ持ちます。「美」を司る施設であるからには、美術館もまた美しいハコであり、美しい空間を作るべく設計されているわけです。

展示品もパーテーションも取っ払われた松濤美術館の空間は、身を委ねて全身で空間を味わう素晴らしい時間を与えてくれました。言語化が難しい部分ではありますが、この展示によって「心地いい空間」を贅沢に味わうことができたのです。

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建築は、多くの人がそのハコ自体を目的に訪れたり、鑑賞したりする不思議な分野であるように思います。マーシャル・マクルーハンが「メディアはメッセージである」と言ったように、メディアは「無色透明で単にメッセージを伝達するだけのもの」ではありませんが、建築はまさにそうしたメディアに付いている「色」を楽しませてくれるのではないでしょうか。

さて最後に、そんな何かの容れ物でほとんどの場合は用途や目的が決まっている建築ですが、用途も目的もない話題の建築があります。内藤廣氏が設計した紀尾井清堂という建築です。
「使い方は出来上がってから考えるので思ったように造ってください」というリクエストに合わせて作られたというこの建築(参照)。私が建築家やデザイナーで、クライアントからこんな依頼が来たらゴールも到達地点も分からず右往左往してしまうそうですが、いま私が一番見に行ってみたい「ハコ」の一つです。