今回のフィールドレビューは博士課程の萩原が担当します。今月11日から17日まで東京都美術館で第4回九条美術展が開催されました。今回は九条美術展を見て感じたことを書きたいと思います。
九条美術展は『九条の会』の趣旨に賛同した芸術家や芸術関係者によって2005年に結成された「『九条の会』アピールを広げる美術の会」(略称「九条美術の会」)によって開催されている展示会です。九条美術の会アピールでは以下のように宣言されています。
私たち美術にかかわるものにとって、平和と自由はかけがえのない表現の保障です。かつて美術家はあの侵略戦争で表現の自由を奪われ、戦争に加担させられたにがく苦い歴史をもっています。私たちの先輩は、この道を二度と繰り返してはならないと、戦後60年に亘り、平和・自由・人権を根本精神とする日本国憲法のもとで、営々と平和と創造の道を歩みつづけてきました。
戦争放棄、戦力不保持、交戦権否認を掲げた憲法九条の護持に賛同するこの会は、アジア・太平洋戦争の記憶と戦争に対する強い否認を元に作り上げられたように思われます。それはかつての戦争で芸術家が様々なかたちで戦争遂行に加担したことに対する反省と批判によって支えられているものだと言えるでしょう。
つまり九条美術展とは文字通り戦争に対する反対を表明する場として、そしてそれを体現する憲法九条を順守する政治的な場として成立するものだと言えます。そのような政治的な立場は、包括的に平和主義と呼ばれることが多いです。つまり現在の日本において、憲法九条は「平和」という概念を象徴するものとなっているわけです。
今回の九条美術展を見て思ったことは、「平和」という概念が常に更新されていくものであるということです。
まず、今回の展示を見ていて一番目についたのは東日本大震災と原発事故というモチーフが多用されていたことでした。津波の後の風景や、放射能のハザードシンボル、福島第一原発などが描かれている絵画が多かったように思います。
厳密に言えば憲法九条が示すのは反戦です。したがって大きな災害や放射能事故などは憲法九条の守備範囲ではありません。しかし一方で、日本において憲法九条は「平和」という曖昧な概念を体現するものでもあります。そのように考えた時、現在の「平和」とは単に反戦だけでは言及しきれない、より総合的な概念になっていると言えるでしょう。つまり大規模な災害が起こらないこと、原発事故に代表されるような放射能の恐怖に晒されないことが「平和」という概念の中で肥大化し、東日本大震災と原発事故というモチーフが「平和」ではない記憶として深く刻み込まれているということです。
逆に、私にとって反戦という意思を示すことが可能な、最も現代的なモチーフは沖縄ですが、沖縄を題材とするような作品がかなり少なかったことも気になりました。
つい先日も辺野古基地移設関連のニュースが報道されていましたが、米軍基地の問題は常に政治の中で重要な位置を占めています。しかし米軍の問題は単に日本とアメリカとの外交上の問題ではなく、日本の安全保障、そして何より基地周辺に住む人々の生活や安全の問題であると言えます。
しかし、今回の展示で沖縄について描かれていた作品は少なく、沖縄が「平和」の問題から疎外されているような気がしました。九条美術の会はある一つのイデオロギーや利害関係によって結ばれた会ではなく、各々の芸術家が自らの意思で参加する自由な組織だと言えます。したがって、何をどのように描き、あるいは創作するかは個人の自由です。なので、私がここで沖縄が描かれていないのはおかしいと憤ることは筋違いかもしれません。
しかしながら、私のような鑑賞する側の人間からすると、沖縄を題材とした作品が少ないことによって、九条が体現する「平和」という概念の中で、沖縄の問題が極めて小さいということを示しているように思ってしまいます。
「あの戦争」の記憶だけではなく、日々の様々な出来事によって「平和」という概念は更新され続けています。しかしその中ではモチーフ同士の権力闘争、つまりその概念の中で消されるものと消されないものとが互いに争い合った結果生まれるものが、私たちの眼前に現れる「平和」という概念なのではないかと思います。九条美術展はそのような「平和」の概念の一つのかたちだと言えるでしょう。