宝塚に行ってきました。

今回のフィールドレビューは、博士課程の鈴木が担当いたします。先日、丹羽研究室の有志で、東京宝塚大劇場で、宝塚を観劇してきました(宝塚ファンの私が、皆さまを無理やりお誘いしたのですが…)

私は宝塚を見るようになる前までは、舞台を日常的に見るという経験がなかったのですが、舞台を観劇するという体験は、テレビを見る、漫画を読むという体験とは、似ているようで非常に異なっているなと感じます。私の個人的な印象ですが、テレビ・漫画の受容は、やはり非常に個人的な体験だと感じます。「読み」がいかに規定されているか、という問題ではなく、受容の体験がプライベートな場でなされていると思うのです(そうでない試みもたくさんありますし、ここでは優劣の問題には触れていません)。

一方で、舞台は、劇場という広い空間で、多くの人と(東京宝塚劇場ならば約2000人の人々と)いっしょに受容されます。この点は映画と同様ですが、さらに、宝塚では拍手・手拍子が頻繁に起こります(特にショーでは非常によく「訓練」された手拍子が入ります。隣の人らと全く同じタイミング・リズムでなされる手拍子は、圧巻です)。こうした意味でも観客同士の共同性が担保されています。また、「宝塚ファン」という視点からですが、「スター」がどこに視線を向けたか?いまどこを見ているか?という問題も非常に大きいです(卑小な問題ですが、ファンにとっては重要です(笑))。他の観客をどうしても意識してしまう状態に置かれていると言えます。

「スター」は、劇場の空間全体を支配しなければならないという言い方が、よくなされます。また、舞台は生ものであり、舞台映像は実際のものとは全く異なっている(だから、舞台映像だけでは「批評」できない)、という指摘もよく聞くものです。これらの言葉が生み出される背景、宝塚の「メディア」としての特性に、実際に体験してみて、触れられたような気がします。

さて、宝塚は長い歴史を持っており(今年で101周年、東京駅と同い年です)、この宝塚文化に関しては少なくない言説の蓄積があります。

川崎(1999)は、「宝塚歌劇団というシステムとメディアの総体」を対象とし、これを歴史社会的に分析し、20世紀の日本型モダニズムの展開のなかにこれを置きなおすという試みを行っています。ここでは、宝塚が「婚礼博覧会」の余興として登場したことから、そうした「博覧会のまなざし」は、「少女」に何を働きかけたか、そこからいかにして「学校」や「生徒」という宝塚独自の自己規定が生み出されていったかが論じられています。また宝塚の創始者である実業家・小林一三は、鉄道事業・百貨店経営・住宅開発などに関わった人物であり、この時期の都市空間の変容と、そこにおける宝塚の「劇場」の役割についても考察が加えられます。

また、宝塚には、個別のスターごとにファンクラブ(非公式)が存在し、「入り出待ち」「お茶会」など、独自のファン文化を形成しています(こうしたファンクラブに加入していない宝塚「ファン」も存在します)。宮本(2011)は、エスノグラフィー的手法に基づいて、こうした宝塚ファンの有り様に関した調査を行っています。ファンクラブがいかに組織されているのか、チケットの確保と配布がファンクラブを通じていかになされているか、その他、会服や会報・グッズ販売など、1990年代から2000年代のファンクラブの実情が克明に記されています。

この他にも、公演やスターを対象とした多くの「批評」があり、補足しきれない言説空間が広がっていると言えると思います。

さて、自分自身が「宝塚ファン」であるという意味で、研究にどのような社会的広がりを担保させるか、については非常に興味を持っている点です。それはすなわち、今後、私が宝塚に関して研究を行うとしたとき、「宝塚ファン」ではない人々に、いかにして、自分が感じている宝塚の面白さを届けるのか、ということです。これは、宝塚だけではなく、自分自身が行っている漫画研究にもつながる疑問です。

さて、今回のフィールドレビューで、「宝塚ファン」ではない皆さまに、宝塚の面白さは伝えられたでしょうか?はなはだ自信はありませんが、宝塚はとっても面白く、敷居も意外に低いので、お試ししてみる価値はあると思います!

引用文献
川崎賢子, 1999,『宝塚――消費社会のスペクタクル』講談社
宮本直美, 2011,『宝塚ファンの社会学―スターは劇場の外で作られる』青弓社