話題の本コーナーで考えたこと

修士課程の蓼沼です。先日、近所の書店で話題の本コーナーを見ていたら、「職場における感情・心」をテーマとしたものが多く並んでいました。たとえば、仕事で心が疲れないようにする方法を指南する本。ビジネスパーソンが真っ先に身につけたほうがよいスキルとしてメンタルコントロールを挙げ、物事の捉え方を変えたり、マインドフルネスを取り入れたりすることを勧めています[1]

心理的安全性をテーマとした本も複数見つかりました。これはGoogleが広めた言葉で、心理的安全性の高いチームは低いチームと比べて離職率が低く、高い収益をあげるそうです[2]。これをきっかけに、心理的安全性の高い組織を作る方法が注目されるようになりました[3]。AIを使った仕事術やキャリア設計といった”いかにも仕事”な本に負けないほど、心の問題を扱う本が棚の広い位置を占めていたのは、少し意外な感じがしました。

書店の棚を撮影するには申請・許可が必要だったため、
気になる2冊を買ってきました。

書店に並ぶ本をみて思い出したのは、昨年ある授業で読んだ、ジクハルト・ネッケルというドイツの社会学者による講演録です[4]。ネッケルはエモーショナル・キャピタリズムという言葉で、現代において感情が経済的利益を生むための重要な要素になっていることを言い表します。企業経営では従業員の気持ちや感情を尊重し、(彼らの)仕事による自己実現に寄与することで、経済行為の効率性を上げる。上司と部下の関係構築や従業員の評価においても、感情のコントロールを重要視する。これによって生産性を高めようとした結果、個人としては感情の貧困化やデプレッション(うつ病)が、社会全体ではさまざまな矛盾が生まれていると、ネッケルは指摘します。講演録のなかで印象的なのは「個人が職場で勝ち抜くために、またマーケットの競争で生活するために、感情を効率よく用いなければならない状況に至っている(p.63)」という言葉です。書店の話題の本コーナーも、こうした状況を反映しているのかもしれません。

社会学の研究対象として感情が注目されたきっかけの一つは、アメリカの研究者アーリー・ホックシールドが感情労働の概念を提示したことでした[5]。そこではサービス業における感情管理・感情の商品化が扱われていましたが、ネッケルはその水準がさらに深くなっていること、従業員の自己実現と結びつきながら進行していることをあぶり出しています。心をめぐる問題を個人の問題としてではなく、社会的な問題として扱うネッケルの視点は、異なる気づきを与えてくれます。

このような話題について考えていると、働きながら大学院に通っている私は、少し複雑な気持ちになります。従業員として職場で感情管理をしている自分を、大学院生としての自分が(批判的に)観察する、という状況が生まれてしまうからです。やりきれなく思うこともありますが、そこから問いが立ち上がり、研究の原動力になることもあります。書いて整理することで、なんとか両立していこうと思っています。


[1] 福山 敦士, 2023,『会社、仕事、人間関係で 心が疲れない仕事術――会社では教えてくれないあなたの心を守る仕事のコツ7』あさ出版.

[2] Google re:Work 「『効果的なチームとは何か』を知る」(参照元URL https://rework.withgoogle.com/jp/guides/understanding-team-effectiveness/#introduction 最終閲覧日 2023年6月3日)

[3] 石井遼介, 2020, 『心理的安全性のつくりかた 「心理的柔軟性」が困難を乗り越えるチームに変える』日本能率協会マネジメントセンター.

[4] Sighard Neckel,. 2014, ‘Die Kultur des emotionalen Kapitalismus: Paradoxien moderner Gefühlssteuerung ’(三島憲一訳, 「エモーショナル・キャピタリズムの文化—現代の感情操縦のパラドックス—」『思想』no. 1093 号, 51-67頁, 岩波書店.)

[5] Hochschild, Arlie,.1983, “The Managed Heart ― Commercialization of Human Feeling”, Berkeley : the University of California Press.(石川准・室伏亜希訳, 2000, 『管理される心 ― 感情が商品になるとき』世界思想社.)