ウィズコロナ読書案内:『日本の百年』を読む

今回のフィールドレビューは、博士課程の松本が担当します。今、世界中が直面しているコロナ禍。この状況と向き合う「すべ」を、私たちはいかに獲得できるのでしょうか。その手がかりを、読書案内という形式をかりながら探っていきます。今日取り上げるのは、『日本の百年』全10巻(鶴見俊輔など、筑摩書房、19967)です。

今、コロナ禍に関する私的な記録が、全世界的・同時代的に生み出されています。検温の記録、ジョギングのレコード、健康記録、レシピ、読書メモ、新聞の切り抜き、友人や家族間での交換日記…。巣ごもり生活によって、記録を残すという行為が、より身近になった人も多いのではないでしょうか。「新しい生活様式」のひとつとして、日々の記録を残すことがひろく定着する日も近いかもしれません。

公式の記録ではない、プロの書き手ではない、いわば「小さな生活の記録」の膨大な集積。ここに公的な資料を凌駕する価値があるということを、私たちはもうすでにいろんな状況から理解し始めています。それは時間の経過とともに顕在化され、来たる将来において、コロナ禍を知るうえでの貴重な歴史資料としても有用なものになっていくでしょう。そこで考えてみたいのが、この小さな記録を組織化する方法です。

幾多の小さな記録をいかに構成し、価値として提示・昇華させていくのか。その手がかりになると思われるのが、今から約50年前に刊行された『日本の百年』全10巻シリーズです。この試みは「明治100年」の節目を記念して、近代日本の100年を振り返ろうと企画されたものです。1巻ごとに約10年ずつ時代を遡る体裁としてまとめられています。また、一冊をとおして小見出しと通し番号が付されています。例えば、第1巻には、合計132の小見出しと通し番号が存在します。

このシリーズのユニークな点は、市井の人々が記した日記や著作の断片をつなぎ合わせながら、各時代を振り返っていく方法にあります。シリーズの編著者のひとりである鶴見俊輔は、第1巻のあとがきにおいて、このシリーズのアプローチを「大きな事件と小さな人とのくみあわせ」と名付けて紹介しています。それがいったいどのようなものなのか、以下の解説を読んでみましょう。

「あらゆる人にとって、何らかの仕方でそれをうけとることをしいるような、それぞれの時代の大事件をえらんで、それらの大きな事件を、それらをつくりそしてうけとめた同時代の小さな人々の心をとおしてえがくことをこころみた。《略》小さな人が、小さいままに、現実の歴史の方向をさだめる独自の力になる。大入道のように見える場所にたつ時にだけ、歴史に参画できるという考えから離れて、過去・現実・未来をながめたい。」(p.343)

まず、実際に起きた大きな事件や事象を選ぶ。次に、それに関する複数の小さな記録を引用する。そして、大と小の記録を紐づけ、その時代の断片を見せていく。さらに、そんなミニマルな一連のユニットを何個も編集・並置していく。その結果、断片どうしが有機的にむすびつき、時代のあり方が立体的に見えてきます。それはまるで、点描で描かれたスーラの絵のようです。

例えば、鶴見が執筆した第1巻の『こどもたちの戦後史から』章では、まず、警視庁発表の子どもの家出数が示され、次に、戦争孤児を施設に引き取って世話をする人物が記した文章が抜粋されます。さらに、浮浪児だった当時12歳の語りが別の書籍から引用されます。さらには、また別の人物のエッセイから「戦後に、子どもたちが『浮浪児ごっこ』する光景に衝撃をうけた」という回想部分を紹介する文章が続いていきます。

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このダイナミックで繊細な展開の妙は、ぜひご一読をとおして実感していただきたいです。いずれにせよ、ここには、小さな記録をいかに組織化するのかというプラグマティックな問題意識と、その問題意識に連動した方法が検討・選択されています。実際的で具体的な問題が、アカデミックな態度としっかり接続しているさまがみて取れるのです。

同時多発的に生まれ続けている、いくつもの小さな声たち。このような情報は、どのようにアッセンブル可能なのか。誰が、どういった立場でアッセンブル可能なのか。このような問いは、東日本大震災の際にも生活者の視点から投げかけられたものでした。人文科学のあり方。その真価が、今あらためて問われているように思います。