スマップとの大晦日:地方テレビと宮崎県

こんちには、丹羽研の国際研修員の中山です。今回は宮崎の祖母の家で大晦日に見たSMAPxSMAP最終回を通して感じた事と地方テレビについて少し考えたいと思います。


SMAPxSMAP公式サイトhttp://www.fujitv.co.jp/smapsmap/

私は、年末年始の休暇を宮崎にある祖母の家で過ごしました。幼い頃から祖母の家では本を読むかラジオを聴くことが多く、それは宮崎は全国ネットのチャンネルが少なく東京や他の地域との放送と大きくタイムラグがあるからです。祖母は高齢でテレビもあまり見ないため、ケーブルテレビを入れていないので、視聴できるチャンネルに限りがあります。そのためNHKと民放2局のみが視聴可能です。ネットでも宮崎のテレビ欄がひどいと話題になり、まとめサイトに取り上げられることもあります。民放2局ということは、全国的に月9のドラマが月曜9時に放送されるとは限らないということや、今現在放送されている番組が放送されるのに数ヶ月待たなければならないという状況があります。新聞のテレビ欄も東京と比べると少ないです。

幼いころは「おばあちゃんの家は面白いテレビが見られない場所」と認識していて、代わりに外で遊んだり、本を読んだり他のメディアや遊びに強制的に目を向ける機会をくれる場所だしたが、テレビの研究者になったいま、この宮崎の奇妙な状況に、地方テレビと全国ネットの関係性などを考えさられる場所へと変わっていました。

近代化が続く現代社会でメディアやテクノロジーへのアクセスが、様々な理由で、構築されていない場所があります。地形的な理由や政治的な理由と、さまざまな要因があります。私が普段大学院生として生活するアメリカでも、未だに主流であるケーブルテレビやインターネット回線がない地方地域があります。2017年には考えがたいことですが、そのような現実は先進国と呼ばれる国でもあり、その状況により地域が孤立してしまい、情報入手に苦労をする人々が、マイノリティかもしれないが、存在しています。しかし、そのような状況にある人はテクノロジーが当たり前な社会からは忘れられていて、そのような状況を可視化するための研究も少ないです。私が受け持ってきた学生達のほとんどがこの事実を告げるとそんな「非近代的」な生活を強いられる人がいることにショックを受け、なぜその状況が改善されないのか理解できないことが多いです。テクノロジー、そしてテクノロジーが運ぶ情報がアクセスできないということは、国や世界を取り巻く状況から取り残されるということであり、同時に国や世界はそのような状況にある人たちへ目を向けずにいられるということです。

そして、テレビまたはネットのどちらがあればいいという問題でもないのです。例えば、テレビがないが、ネットがあるという場合、ネットを通して様々な情報を得られますが、社会を騒がす番組などが見られないままとなります。インンターネットや新しいテクノロジーが広がることで地方と都市の情報格差はなくなると見られてきましたが、格差を今まで以上に透明にする場合もあります。 特に全国向けのテレビ番組が「地方」を取り上げることで地方の現実を可視化する一方で、バラエティ番組などでは格差をスペクタクルとして演出して利用していると見ることもできます。今までにも、地方の生活や人々だけでなく、アメトークの地方番組芸人の回のように、東京で制作されている全国ネットの番組で地方テレビの現状や地方テレビで活躍する人が全国ネットでフィーチャーされることはありました。しかし、このような取り上げ方もまた地方と都会の格差を強調することとなり、未だに「都市」対「地方」という相対的な関係性が強まります。特に全国ネットのテレビ局が少ない宮崎の地方放送局やその地域の視聴者はテレビ制作だけでなくテレビ研究のなかでも、見逃されています。

そんな中で、今年の大晦日は、地方テレビだから、宮崎のテレビだから起きた、奇跡のような出来事がありました。それは2016年を騒がせたSMAP独立・解散騒動を締めくくるSMAPxSMAP最終回の大晦日放送でした。


31日大晦日の宮崎のテレビ欄

全国ネットの地デジ放送のアクセスが少ない宮崎では、「全国」で12月26日に放送された、フジテレビのSMAPxSMAP最終回は放送されませんでした。この時点で「全国」という言葉を使って良いのかも一つの疑問が浮かびます。ナショナルや全国という言葉をテレビ放送で考えた時、視聴できない地域がある中で、このような言葉はどういう意味を持ち、どのような形で論じられるべきなのか、と考えさせられます。このフィールドレビューでは詳しく論じられませんが、地方テレビ、特に宮崎のテレビと同じような状況が日本だけでなく世界的にもまだまだ多いので、テレビ研究者は今後もこのローカル・ナショナル・リージョナル・グローバルの関係性は避けらないことなのだと再認識させられました。

SMAPxSMAP最終回は、事実上12月31日に解散したSMAPが5人で最後に出演した番組となったため、全国的に注目されていました。私自身も26日に見ながら、ある時代の終わりを肌で感じました。そんな中、宮崎県ではそのSMAPxSMAP最終回を31日に放送することを決め、Yahooニュースやスポニチアネックスなどで報じられました。その記事の中では、NHKも成し得なかった大晦日に、SMAPの最終の日に、SMAPの「テレビ出演」を可能にした宮崎と青森(青森も宮崎と同様大晦日に最終回放送となっていました)を褒める、タレントの猫ひろしさんのツイートも記載されていました。


スポニチアネックスの記事(http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/12/27/kiji/20161227s00041000110000c.html)

31日当日、全国的にSMAP解散を悲しむ声がニュースやネットで目立つ中、私は改めてSMAPxSMAP最終回を宮崎の祖母の家で視聴しました。今年の宮崎は異例の暖かさで19度の温かい日が差し込む部屋で、ネットでのSMAPxSMAPファンのツイートなどを見ながらSMAPxSMAP最終回を視聴しました。


宮崎で私のテレビ視聴定位置である、陽の差し込む縁側の写真

宮崎にいるSMAPファンは、全国のSMAPファンやメディアが報道したSMAPxSMAP最終回の情報は入手できるが、実際に見られないため、ある意味26日のSMAPxSMAP最終回というzeitgeistにアクセスできないでいなのです。しかし、普段はローカルとナショナルの力関係の違いを日常で感じるテレビ放送に、この日だけは宮崎県民と青森県民しか経験のできない、特別なSMAPとの大晦日が現実となったのです。この日でSMAPが解散なのだと思いながらSMAPxSMAP最終回を見ることは、一年の終わりと一つの時代の終わりが同日であることで 、26日に視聴した時よりもSMAP解散というメディア史に残る事件が巻き起こした2016年の数々の出来事、特にファンたちの購買運動や広告運動などを、より強く感じました。


SMAPxSMAP最終回の印象に残ったシーン

またこの奇妙な状況に立ち会った私は、映像メディア研究者として、メディア研究の中で、Michael CurtinなどがMedia Capitalと呼ぶ、東京のような都市と宮崎のような地方の関係性は、格差や強者対弱者などという関係性では簡単に片付けられないと感じました。そして、今後は宮崎県のテレビ制作を通して、地方テレビについて考えることで、日本テレビ産業史だけでなく、グローバル化するテレビ環境を再考察するのに、稀有なコンテキストなのではないかと感じました。