こんにちは、今回のフィールドレビューはM2の鈴木が担当いたします。先日、島根県にある足立美術館に行ってきました。今日は、そこで考えたことなどについてご報告したいと思います。
足立美術館は、島根県安芸市にある、日本画と日本庭園で有名な美術館です。私が訪問した日はちょうど天気も良く、すばらしい風景を見ることができました。
さて、今回、ここを訪れた目的の1つには、8月30日までやっている夏季特別展「日本画に観る、感じる『涼』」を見るというのがありました。これは、日本画に描かれた、豪快な滝の様子や冬の雪景色を見て、涼しさを感じるという展覧会です。
滝の流れ落ちる一瞬が切り取られた構図は美しく、時の流れが止まったような、そんな錯覚を覚えます。コマによって時間の経過を描写する漫画とは、全く別の表現なのだと改めて思い入りました。
展覧会では、日本画、特に横山大観のコレクションで有名な美術館だけあって、竹内栖鳳や川端龍子、榊原紫峰ら近代日本画壇を代表する画家たちの作品を数多く見ることが出来ました。
このなかで、私が特に興味を持っているのが、川端龍子です。川端龍子は、日本画の大家として知られていますが、若いころは『方寸』などの絵雑誌に漫画を描いていた経歴を持っています。
このように、漫画やコマ絵を書いていたがその後漫画家にならなかった人は、龍子以外にも、長原孝太郎、竹久夢二、山本鼎などがいます。当時は、「漫画家になる」・「画家になる」というコースが今ほど確立されていなかったのです。
では、漫画と日本画を結びつけたものはなんだったのでしょうか?私は、それは「民衆」という概念だったのではないかな、と考えています。
龍子は「会場芸術」、すなわち、展覧会会場で作品を見る民衆のための芸術を主張をしていました。漫画も、漫画とは何か、と自己の存在を規定するなかで「民衆芸術」という言葉を頻繁に用いています。これは、美術が展覧会至上主義となり、その題材の選択などにおいて民衆の感情と乖離していることへの批判から生まれた言葉だったようです。院展・文展などの制度が整えられ、芸術としての絵画という外面が埋められていく中で、どうしても民衆と乖離していってしまう。
しかし、日露戦争後から1920年代にかけては、大正デモクラシーという言葉が示すように、「民衆」が注目された時期でもありました。ダイナミックに変転する社会のただなかで、世相を表現のなかに積極的に反映させようとしたのが、龍子のような画家であり、漫画家であったのではないでしょうか。