みなさん、はじめまして。今回は、修士課程1年の木谷有里が担当させていただきます。早いものでもうすぐ6月ですね。5月病!?いえいえ、日々忙しくも充実した生活を送っております。突然ですが、みなさん、5月15日って聞くと何を想い出します?
誰かの誕生日や、何かの事件…人によって色々だと思います。試しに「今日は何の日?カレンダー」から、いくつかピックアップしてみると…、5月15日は、
・水野忠邦が天保の改革を行うと宣言した日(1841)
・アメリカ初のプロ野球チームが誕生した日(1869)
・犬養首相が射殺された5・15事件がおきた日(1932)
・英国、クリスマス島で第一回水爆実験が行われた日(1957)
・沖縄本土復帰(1972)
・セブイレブン、日本の一号店が豊洲にオープンした日(1974)
といった日だそうです。上記項目を見て、「あ~そうだった!!」って思われる事柄はありましたか。それとも「へぇ~そうなんだ」と思われましたか。
何かを思い出す時、他人やメディアに言及されて、「あぁ!」って想い出すことがよくありませんか。今日は、まずこの「想起(想い出すこと)」についてモーリス・アルヴァックスの『集合的記憶』という著作を手がかりに考えてみたいと思います。そして、人の想起のきっかけとなるものの一つであるメディアについても考えてみます。
アルヴァックスによると、全ての記憶というのは、社会的に編制されるものであり、純粋に個人的な記憶というのは存在しません。当たり前のようですが、人は常に様々な人やモノと関りながら生きているので、全ての想起される出来事(記憶)には、常に「他者」が関っています。
どの記憶も、その人がその時に属していた家族、友達、サークル、学校、地域社会、国家、SNS上のコミュニティなど様々な集団の中で行われた出来事の記憶です。もちろん、この集団は、現実に物理的実体だけでなく、読者共同体など観念上の集団(集合)であることもあります。
例えば、東大のキャンパスにある三四郎池を歩いていて、夏目漱石の『三四郎』の世界を想い出したとしましょう。その時、その人は、夏目漱石、引いては『三四郎』を読んでいる人々という集団に属しながら、その情景を想起していると考えられます。
さて、そうした記憶を想い出すためには、その出来事がなされた時にいた集団と、現在においても心理的(感情的)に繋がっている必要があるとアルヴァックスは言います。つまり、その集団においてなされた出来事やそこで感じたことが、現在も生き生きとしたものとして自らの中に存在していることが、想起の要件です。逆に、現在関心が離れてしまっている集団において行われた出来事は、想い出せません。
さっきの例でいうと、夏目漱石の『三四郎』を読んだ時の感情や思い(または読んだこと自体)を忘れているともはや、三四郎池を見ても、『三四郎』の世界は想起されません。すなわち、人の想い出というのは、現在もその集団に思いを馳せることができるということが大事なのです。よって、私たちが想い出す出来事は、現在において、私たちがもっとも密接に関わっている集団の記憶であることが多いと言えるでしょう。
さて話を、5月15日に戻しましょう。今、私が5月15日と聞いて思い出すのは、やはり沖縄本土復帰です。それはおそらく現在私が密接に関係を持っている集団の一つである丹羽研究室が、5月25日に「沖縄返還40年」を受け、テレビドキュメンタリ―の上映会をするからというのがもっとも大きいと思います。
しかし、それだけでなく、毎年5月15日は、「沖縄復帰の日」としてテレビ、ラジオ、新聞に登場します。特に今年は、復帰40周年ということもあり、関連番組がいくつか放送され、当日はニュースでも言及されていました。メディアは、5月15日と「沖縄本土復帰」を結びつけて私に想起させるものの一つでした。このように、私は丹羽研の一員として、またマス・メディアの視聴者・読者の一員として5月15日という日を「復帰の日」として想起しました。
ただ、同じ出来事や事件を想起しても、そのイメージは多種多様です。例えば、5月15日から「沖縄復帰」ということを想起しても、調印式の映像や教科書の写真を想起する人もいれば、占領下の出来事を想起する人、当時の自分の暮らしを想起する人など、人によって様々なイメージが喚起されます。その人がどの集団と心理的に関わりを持ち、記憶を想起するかによって、喚起されるイメージは異なります。
加えて、そのイメージの意味も、国民的見解、沖縄県民的見解、個人的見解など、どの集団の観点から見るかによって、異なってきます。世代、国籍、ジェンダー、年齢、地域、社会的地位など個々人の社会的条件や経験の相違などによって、イメージの持つ意味は、原理的には多様です。
ちなみに私の場合は、「沖縄復帰」と聞いて、71年の沖縄返還協定の調印式の映像と沖縄の復帰を目指す人々が、政府主導の復帰に抗議しているイメージが想起されました。これは、最近視聴した、復帰関連のニュースやドキュメンタリー映像からのイメージだと考えられます。当時を知らない私にとって、メディアが伝えるものが「沖縄復帰」イメージをつくるのです。
ただ、メディア論を勉強する立場として、このメディアから得て構成されたイメージは、批判的に吟味されねばいけません。先ほども、述べたように本来的に記憶や記憶の中のイメージというものは、多様性を持つものであるからです。メディアは、多様な記憶の中から、どのような記憶を取り上げ、どのような立場から意味づけているのかを考えねばいけません。
一つの同一の出来事の記憶やそのイメージは、様々な集合的記憶がせめぎ合う中で立ち上がってきます。このプロセスの中で、どういった記憶が忘れ去られ、どういった記憶が再生産されるのでしょうか。マス・メディア上で語られるある出来事の記憶(記録)は、どのような集団の記憶なのでしょうか。そしてそれは、様々なバックグラウンドを持つ人々にとってどのような異なる意味を持ちうるのでしょうか。また、こうしたメディアにおいてなされた記憶の記録は、人々の過去意識とどう連関を持ちうるのでしょうか。こういった問題を、具体的な事象において思索していくことが私の課題です。