博士課程の飯田です。先日『ベルファスト』という映画を見たときに考えた「色」について少し書いてみたいと思います。映画のネタバレを含みますので、ご注意ください。
ベルファストとは北アイルランドにある港湾都市。ご存知のように、タイタニック号が造られた街でもあります。映画は1969年、この街で起きたプロテスタント系住民とカトリック系住民のとある闘争(いわゆる北アイルランド紛争)を通して、宗派を超えて培ってきた豊穣なコミュニティが変容していく姿を描いています。パンフレットによると、監督ケネス・ブラナーの半自伝的作品で、9歳の主人公(剣と盾を持った少年)には彼の一部が投影されているとか。
素晴らしい物語の詳細については映画をみていただくとして、私にとって印象的だったのは、モノクロとカラーの使い分けでした。当時の描写はモノクロで、それを挟むようにでてくる現在のベルファストはカラーで撮られており、どちらもとても合っているんです。
監督はインタビューで「当時のベルファストは、スリラー映画のようなモノクロームな世界に見えた」と語っていますが、主人公は不自由な生活の中でも楽しさを見出し、恋もします。その生き生きとした演技は、後から思い出しても、カラーで描かれていたように感じるほど。こうした感覚は1950年代の街頭テレビをみたことがある人が「モノクロのはずなんだけど、カラーに見えたんだよね」などと振り返っているのに似ているかもしれません。
監督は同じインタビューの中で、映画の世界に行くことは「カラフルな創造の世界への逃避」だったとも言っています。「新しさ、未来=カラー」「古さ、過去=モノクロ」という対比。柳田國男は『明治大正史世相篇』の「眼に映ずる世相」で、新しい文明開花の時代に入ることで、街のいろいろなものがカラフルになっていったと指摘しています。このカラーとモノクロのイメージが、日本と英国で似ていることには興味をそそられます。
この対比の副産物かもしれませんが、「カラー=薄っぺら」「モノクロ=本物感」みたいな意味合いも流通しているように思います。モノクロ写真やモノクロ映画は今も作り続けられていますが、それに触れた時、何か本質的なものが表現されているように思ったりする自分がいます(そういえば、今の若者ファッションの主流はモノトーンですね)。
ベルファストには、新型コロナ流行直前の2019年に行ったことがあります。1泊しかできず、割り当てた時間も少なかったため、まさに映画が取り上げた、プロテスタント系住民とカトリック系住民が住む地域(ウエスト・ベルファスト)の二つの通り(シャンキル・ロードとフォールス・ロード)をみることにし、3〜4時間かけてゆっくり歩きました。一見、普通の郊外ですが、紛争で亡くなった人の似顔絵が家の壁に大きく描かれていたり、紛争の歴史が刻まれたモニュメントがあちこちにあったりしていました。どこも大切に保存されていたのが印象に残っています。
この二つの通りの間には、不慮の衝突などを防ぐために築かれたピース・ラインと呼ばれる壁もありました。高さ5メートル以上はあるコンクリートの壁にはびっしりと宗教的・政治的なメッセージが刻まれていて、何とも言えない雰囲気に包まれていました。
ケネス・ブラナーは平和が戻ったベルファストに驚きと誇りを感じながらも、「現在の平和の脆さに大きな不安も感じている」と語っています。私が訪れた約1ヶ月後、近くの街(ロンドンデリー)で、ジャーナリストが新アイルランド共和軍に射殺される事件がありました。それでももう一度、あの通りを歩いてみたい。カラフルな壁画やモニュメントがある街で生きるということはどんな経験なのか聞いてみたい。映画を見て、そんな誘惑に駆られています。