こんにちは、丹羽ゼミ修士2年の宮地彩華です。最近は70年代・80年代の少女漫画をよく読んでいます。
きっかけは自分の研究の一環で、橋本治の『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』(1995)という少女漫画批評を読んだことでした。この本で紹介されていた少女漫画の中で私が最も気になったのが、山岸涼子の『天人唐草』(1986)です。写真は、中野でこの本を購入した時についていたPOPです(笑)
『天人唐草』の主人公響子は、「女子たるものつつましやかにあるべき」という厳格な父のもとで育てられ、そのせいで極端に内向的な性格になっていきます。異性を避け、自らの気の利かなさを責めながら、息苦しい日々を送っています。しかし、父の死をきっかけに初めて現れた父の愛人は、派手な化粧で色気たっぷりの女性でした。それはまさに、父が「こうあってはいけない」と言っていた女の姿だったのです。
「一体、女として今まで自分を縛ってきたものは何だったのか」という衝撃と困惑が響子の中に広がります。その上憔悴しきった響子を狙う男性からの暴行を受け、最終的に響子は発狂してしまいます。金髪にフリルドレスの姿で「きえー」と叫びながら羽田空港を闊歩するさまは、作品としてかなり印象的です。そして、物語は「彼女はようやく解放されたのだ、狂気という檻の中で。」という一言で閉められます。
「よき娘」であることと、「求められる女」であること。『天人唐草』には、女としての”正解”のなさへの葛藤が巧妙に描かれています。この作品に限らず、70年代・80年代の少女漫画は、女子たちが「女」を持て余し、居場所を見いだせないでいるさまが、繊細かつ詩的に表現されているものが多くあります。『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』を読んだうえで、作品に触れると、その面白さにより浸れるかと思います。
おすすめです。