今回のフィールドレビューは博士課程の王が8月と9月で行った資料調査について紹介します。一ヶ月半にわたって、日中韓の11都市で滞在し、色々と経験してきました。
今年の8月と9月に中国の上海市、ハルビン市、長春市、瀋陽市と撫順市に再び資料調査に行ってきました。何回も行ったことがありますが、各都市における博物館と歴史的建築物が日本占領期(上海の「淪陥期」、東北部の「旧満洲国」時代)をいかに説明するかについて、各都市はそれぞれかなり異なっていると今回初めて気づきました。
上海電影博物館は関係者や倉庫などから、大量かつ貴重な一次歴史資料と実物を集めながら、淪陥期の上海映画などに関する展示をやっています。そこの展示ではガラス展示ケースだけでなく、タッチせずに手の移動でリモートコントロールできるスクリーンが備わっています。来場者はそのようなスクリーンを用いることで映像やアニメで説明される映画史を鑑賞できます。また、淪陥期前後、日本人によって建てられた建築物は上海バンドの各箇所に分散し、現在のおしゃれでモダンな上海バンドの万国建築群の一部として知られています。
上:上海電影博物館の展示スクリーン
下:上海バンドの夜景
こうして先端技術とグローバル的な雰囲気の中で日本占領期の文化を浮き彫りにしている上海に対して、昔の満洲国だった東北部の都市は近年資料の解禁と建築物の修繕を通して、旧満洲国に関する歴史を自らの立場で発信しています。ハルビン市の関連博物館は、すべて日本軍の残酷さや抗日戦争の偉大さをテーマとしている一方、市内の町でロシア人の建物と混在する日本人の建物には「歴史建築」のプレートもつけられ、修繕されながら引き続き利用されています。
しかし南下して長春市に着くと、旧満洲国時代の建築と文化が重要な地位を占めしているという雰囲気へ一変します。長春市は首都「新京」として初めて開発されたところなので、都市としての歴史は1930年代からのものだと言っても過言ではありません。そのため、市内の歴史建築は堂々と旧満州国の歴史を紹介したり、偽満皇宮博物陰と長春電影旧址博物館(旧満洲映画協会旧址)は、当時の宮廷生活と映画文化を一次資料と実物で詳しく説明したりするのは当たり前だと市民に思われています。
特に長春電影旧址博物館は、満洲映画協会本館一階の竜模様の本物のガラス床を敷いています。さらに博物館は、満映本館の内装を記載してある史料に基づいて、甘粕正彦の自殺した部屋を公開し、満映の各部署の部屋などを復原しています。そして今回、これまで観たことのなかった満映自作の自社PR映画の映像を観賞させていただきました。
上:旧満洲国民生部の建物の説明看板
下:復原された旧満洲映画協会字幕係の部屋
さらに南の方に行くと瀋陽市に到着しました。瀋陽市における戦前や戦時期の日本人の建物は、殆ど解体・廃棄されています。1931年の満州事変以降から日本軍の北上により、建築開発の中心が瀋陽市(当時の「奉天」)から長春へ移動しました。瀋陽市における日本人の建物は1920年代まで建てられたものが多いです。解体されていない建物の多くは、水道、電気と暖房のいずれかが備わっていなく、都市の最貧困層が集まっているところです。
もちろん現在まで利用できる建物も存在しています。例えば、いま国営企業である「遼寧ホテル」と呼ばれている当時の「奉天ヤマトホテル」です。李香蘭がデビューした時の宴会ホールと舞台、満鉄の食器などが現在までよく保存されています。こんな瀋陽市には、清朝の盛京故宮博物館、満州事変をテーマとする九一八歴史博物館と張学良帥府博物館があります。清朝の発祥地としての多民族文化融合の歴史、日本侵略の勃発地としての日中戦争の歴史、張氏奉天派軍閥と戦後の瀋陽軍の拠点地としての軍事優位の歴史が瀋陽市に三立しています。
上:遼寧ホテルの宴会ホール
下:九一八歴史博物館における満州事変記念碑
このように、戦争時代から平和の現在にわたって、上海であれ東北部の各都市であれ、いずれにも世界各国の文化の融合、アジア各民族の流動が絶えず存在していると思います。日本は戦争をとおして、中国各地域に自らの文化を浸透させることで次第にほかの多民族の文化と絡み合い、ついに各地の都市空間や歴史記憶のかけがえない一部分となりました。これは決して一方向性のものではありません。
現在の平和時代では、アジアひいては世界の各民族は移民や留学生や観光などを通して、日本にどれほど自らの文化や影響を浸透させることができるのか、日本の各地域の社会にいかなる変容をもたらすのか、ということこそ、いま考えなければならない問題ではないでしょうか。
上:瀋陽市トップの北朝鮮レストランにおける伽耶琴演奏
下:女性二人に注文された大量の焼き肉