記者と社交

博士課程の飯田です。本当に暑い日が続きますね。今回はある納涼会で久しぶりに見た記者らしい振る舞いについて、社交という観点と絡めて少し書いてみたいと思います。

納涼会があったのは7月下旬。新聞記者時代の取材先だったある経済団体の主催で、「気分転換に来たら」と誘っていただきました。なので、参加者のうち半分以上は報道関係の人たちでした。

乾杯の後、記者たちは団体トップの周りに次々と集まっていきました。納涼会は「何もない」(ニュースになるような発言がない)気楽な懇談会という位置付けではありますが、それでも、万が一何かあった(深い内容の発言をされたり、失言があったりした)時は対応しないといけません。だからどの人も、付かず離れずの距離で、耳をそばだてながら、飲み物ばかり口に運んでいました。

わたしも経験ありますが、こういう時の質問はけっこう難しい。自分が聞きたいことと周りの人たちが聞きたいことは一緒ではないし、「毎日暑いですね」なんていっても、その人だから聞ける話につながることは少ない。質問は具体的でありすぎても、一般的でありすぎてもいけないのです。この人はいい記者だな、と印象づけるのは、なかなか大変なのです。

社交について考察した初期の社会学者にジンメルがいます。例えば、彼はこんなことを書いています。

「純粋な形態における社交は、具体的な目的も内容も持たず、また、謂わば社交の瞬間そのものの外部にあるような結果を持たないものであるから、社交はただ人間を基礎とし、この瞬間の満足ーもっとも、余韻が残ることはあろうがーだけが得られればよいのである」(『社会学の根本問題』)

ジンメルは、社交とは、参加者の社会的地位や功績などとは関係のない、極度に形式化されたコミュニケーションだという意味のことをいっています。そこで何が話されたかということには意味はなく、会話をすることそれ自体が目的であり、相手を尊敬しながらコミュニケーションを取る遊戯なのだ、と。

納涼会でのことを重ねると、ジンメルの指摘は本質的だなあと納得する反面、純粋形態の社交の場というのは実態としてはほとんどなく、そこには参加者の生々しい思惑や狙いがあることが理解できます。

ビュッフェ料理が並ぶテーブルの脇で、給仕係の男性二人が「なかなか食べてもらえないね」と話していました。「食べたくても場を離れられない、職業柄仕方のない事情があるんです」。わたしは心の中で、彼らにこう説明しました。

社交の場も含め、社会とは関係の束です。見る目を鍛えて、さまざまな関係の存在を読み取れるようになりたいものです。