みなさま、こんにちは。今回のフィールドレビューは、研究生の晏政が担当致します。先日、私は丹羽ゼミで研究発表を行いました。みなさまから頂いたご意見をもとに、現在は研究計画を改めて練り直しているところです。そこで、ここでは私の研究に重要だと思われる先行研究の1つをご紹介したいと思います。
私の研究テーマは、以前は「アニメから見る日本人の死生観」としていましたが、「アニメにおける『死』」に変更し、90年代以降の「終末アニメ」を対象にしたいと思っています。「終末アニメ」というのは、地球に暮らすたくさんの人々が存亡の危機に瀕し、人類は「終末」を迎えている…ということを背景にするアニメのことです。
この研究の第一の目的は、アニメにおける「死」の様々な様式を帰納することです。たとえば、『新世紀エヴァンゲリオン』(1995年、庵野秀明監督)における宗教の隠喩を含む「死」、『コードギアス 反逆のルルーシュ』(2006年、谷口悟朗監督)における曖昧な「死」、『進撃の巨人』(2013年、荒木哲郎監督)における抗争の根本の理由になる身内の「死」。
そして、それを前提にした第二の研究目的は、大きな背景として「死」が作動する場合の他に、「死」にはどんな作用があって、作者はなぜ「死」をアニメに取り入れるのかということを明らかにすることです。
先行研究を探すのは難しいのですが、今のところ、映画における「死」に関する研究を参照していて、吉村和明(1997)の「ホメオパシーとしての映画(1)映画における死」という論文が参考になりうると考えています。
この論文によると、「死」の表象が映画の発展に決定的な作用を及ぼしています。「死」が「表象不可能なもの」であったため、それは映画の「エデンの時代」には直接的に表現されることはありませんでした。この時代にモンタージュやクローズ・アップといった技法はまだ開発されておらず、「キャメラは正面に据えられ、その前で、ばたつく足、振り上げられる手、そっくり返る目といった『純粋な身振りの消費』のありさまが繰り広げられ」ていました。映画は「生き生きとした世界のスペクタクル」にほかならなかったのです。
その後、「死」が映画の中に導入されました。「映画のなかに現れる死は、すべて捏造された(非)現実」に過ぎず、「死」は一種のフィクションとして、映画を現実世界と「決定的に乖離」させていきます。
しかし、『ヨーロッパ一九五一年』(1952年、ロベルト・ロッセリーニ監督)において、孤独を感じて吹き抜けに身を投じる子供は即死ではなく、病院で死んでしまいます。ヒロインの母は、子が瀕死の際に「絶望に自責の念を感じてずっと彼に付き添い、二人のあいだには親愛に満ちた時間が流れ」ました。子が最後に劇的に死んでしまったにもかかわらず、この病院での「死の遅延」は「フィクション」を否定する意味を含みます。この表象のねじれは、「古典映画」と本質的に区別される「現代的映画」が現れた象徴です。
そして、最終的に筆者は、『ゼロ地帯』(1959年、ジッロ・ポンテコルヴォ監督)おける「死」が「死への畏れを欠いた醜悪な美化」であるとして、フィクションを超えたところに到達したいという監督の意図を批判し、『ヨーロッパ一九五一年』のように、「フィクションを単純に否定するのではなく、むしろそれを利用し、その裏をかいて現実的なるものと戯れるようとする」のは最もよい方法であると示しています。
しかし、映画とは異なって、アニメは本来的に「フィクション」と位置づけられるのかもしれません。「死」がアニメのフィクション性を強化させるのか、それとも現実に接近させるのかという問いは、私の今後の課題です。そもそもサーザン・J・ネイピア(2002)によれば、実写映画の制約から解放された「抽象的な視覚メディアであるアニメーションは、伝えがたきを伝える」手段として、極めて「フィクション」とみなされ、「過剰なスペクタクル」性を持っています。「死」に関する描写も、観客の「恐怖と怖いもの見たさの入り交じった興奮」を引き出すために、全人類の終末や誇張された血の飛び散りなど、非日常的な「死」を強調しています。
その一方で、アニメはテクノロジーの濫用や伝統社会の価値基準の崩壊などを示し、社会に対してあからさまに批判しようとする意図も持っています。「死」という絶体絶命のところに到達させる理由は、いったい何なのでしょうか。私は、アニメにおける「死」が単に「フィクション」であるだけではなく、現実へ接近するための要素の一つとして作用しているのではないかと考えています。
*参考文献
吉村和明(1997)「ホメオパシーとしての映画(1)映画における死」『國學院雜誌』第98巻,第11号,pp.118-129
サーザン・J・ネイピア(2002)『現代日本のアニメ−−「AKIRA」から「千と千寻の神隠し」まで』中央公論新社