作品はよみがえることができるのか?

こんにちは。今回のフィールドレビューを担当する、修士課程2年の半田です。

みなさん、象牙の塔という言葉をご存知でしょうか?世俗から切り離されている(当人たちにとって)理想的な世界といったニュアンスで、ときに大学という学術機関は否定的な文脈で、「あんな世の中の役に立たない研究ばかりしている場所は象牙の塔だ」と評されたりもします。

大学が象牙の塔と形容される背景には、大学側の問題(社会との接点を顧みず「机上の研究」ばかりしている)も、社会側の問題(短期的な経済的成果を求めたり、人文的研究が軽視されたり)も様々ありうるとは思いますが、2018年、そんな大学と社会の関係性を考えさせられる事件が東京大学で起きました。東大本郷キャンパス中央食堂の改修工事の際に、壁に掛けられていた宇佐美圭司という画家の《きずな》という作品が廃棄されていたという事件です。

事件の細かな経緯は各自お調べいただくことにして、現代美術研究者も保存に関する研究者も東大に多数在籍しているにもかかわらず、キャンパスの中でこのような事件が起きてしまったことにアート界は大変なショックを受けました。

こうした事件を受けて東大の駒場博物館で開催されているのが「宇佐美圭司 よみがえる画家」展です。

何点かの絵画作品と再制作作品、廃棄されてしまった《きずな》の再現作品といくつかの資料からなるこの展示では、単に画家・宇佐美圭司の作品を見せるだけでなく、「再制作とは何か」「修復を重ねてもとのパーツがなくなった作品は同一作品と言えるのか」といった哲学的な問いもなされています(駒場博物館にはマルセル・デュシャンというアーティストの作者が生前に許可したレプリカ作品も展示してあります 参考 http://umdb.um.u-tokyo.ac.jp/DKankoub/Publish_db/2001Hazama/07/7128.html )。

興味深いのは、今回の展示のきっかけともなった《きずな》の再現作品の解説に書かれていた、「写真はからそのまま作品を再現することはできない」ということです。どんな写真であっても、カメラのレンズによって必ず歪みが含まれており、そこからそのまま作品を再現したものは、元の作品と重ねたときにズレが表れてしまうのです。写真というのは現実を写し取っているように見えるファンタジーだったりするわけですね。

資料も多く展示されており、丹羽研究室が共同研究を行っているTBSから「アトリエを訪ねて」という番組の宇佐美圭司の回も展示されていました。「記録を残していくこと」としてそれを「アーカイブ化して見返せるようにすること」の重要さが垣間見えます。

ただし一方で、いかに記録を残しても、またアーカイブを残しても、その存在が知られていなかったり必要性が求められていなければ作品が廃棄されてしまうこともあるというのもまた、この《きずな》事件が示した現実であるようにも感じました。

さて、この展示の写真撮影が不可能だったことについては触れておきたいと思います。駒場博物館のルールなのかもしれませんが、《きずな》の再現に際し真資料が少なくて難航したとの記述があったにもかかわらず、展示を撮影不可とするのはあまり整合性の取れた態度ではないと考えます。NHKのプリンプリン物語が関係者の個人的な録画テープによって再放送を可能にしたように(参考 https://www.nhk.or.jp/archives/hakkutsu/news/detail154.html )、個々人の持つ記録がアーカイブとして機能し、いざというときに力となってくれるのではないかという気がしてなりません。

もちろん、こうした学内で起きた不祥事とも言える事件に対して、その反応として展示を行い責任を示したのはいい動きであるように思います。あとは、「これから」の未来についてどう考えていくのか、そしてどう実行していくのかが求められているのだろうと感じられた展示でした。