映画『散文、ただしルール』を見て

修士2年の宮地彩華です。昨年の12月に代官山TheatreGuildで行われたRED LUMというインディーズ映画の上映企画で見た、『散文、ただしルール』という映画について書きたいと思います。会場となった、TheatreGuildは都心にあり、ヘッドフォンをつけて映画を鑑賞し、視聴体験としても面白い施設でした。
演者と監督によるトークショーもありました。

出典:https://moosiclab.com/?p=3758

『散文、ただしルール』(2022)は、カナザワ映画祭でグランプリ、期待の新人監督賞を取った川上さわの初監督作品です。このフィールドレビューにはネタバレが含まれます。

この映画では、強迫観念を持ってしまった、主人公大学生こうめ(椿真帆)の内面世界が目まぐるしく描かれるのですが、物語の中心になるのは、こうめの住んでいる近隣で起きる女子大生を狙った猟奇的な殺人事件のニュース番組です。こうめは毎朝視聴するニュースで報道が行われるたび、自分が襲われるのではないか、自分が犯人なのではないかという表裏一体の不安に支配されます。妄想と現実が交錯しながら主人公は自意識に駆られていきます。

私は映画を見て、こうした葛藤を撮らざるを得なかった、撮影当時まだ19歳だったという監督自身について考え始めました。映画の中では、極めて苛烈な強迫観念──主人公こうめの部屋の壁中に貼られたさまざまな文字が書かれた書道の半紙、うまく馴染めない大学生活、猟奇的な殺人事件が起きるような不完全で恐ろしい世界に生まれ出たこと、自分の強烈な意識が他者によって断絶されるかもしれない恐怖、そしてそれを自分が引き起こさない可能性もないという信じられなさ、何が人の正気をとどめているのかわからない不安、外側の世界とうまく折り合いをつけることも馴染むこともできない主人公の姿が描かれます。こうめにとって強烈に可愛らしいと感じざるを得ない友達のまい子(苺谷ことり)や、他者性を感じないほどに馴染みやすい存在、主人公の部屋に度々現れるイマジナリーフレンドのタカノ(橋村天衣)も登場します。

 (作品の中において)現実と虚構が入り乱れる、私小説的な要素を帯びた映画である『散文、ただしルール』。主人公はそういう考えごとや身の回りで起こることすべてで、いっぱいいっぱいです。強い意志を持つ人が自分と同じ意識を持つ他者との関係性を築く機会に出会う前に、はちきれそうな孤独の中で醸成された葛藤が、発露したような作品でした。

ただ、そうした個人の心身の外側の世界に激しく立ち向かっている監督はあくまでカメラより奥にいて、作中で主人公を演じているこうめ(椿真帆)はむしろその逆で、朴訥とした表情と、淡々とした演技で、作中に不思議な雰囲気を纏わせます。

 印象的だったのは主人公のこうめが、猟奇的な連続殺人事件のニュースを目にしてから、沢山の刃物を懐に忍ばせ、レトルトカレーの空き箱を足に縛り防具にして、厚着をして外出するようになるシーンです。こうめは帰宅すると、急いでドアを閉めて、へたり込むように座ります。かと思えば、夜道で話しかけてきた女性を怖がるあまり、思わず突き飛ばして殺してしまったりもします。自分の意思が何かをおよぼしかねないことへの恐怖や責任感、挿入されるグロテスクなイメージと相反する、強烈な倫理観を感じさせもします。

 『散文、ただしルール』は物語としては、おそらくメジャー志向の人々から見れば、不思議で不安定な要素も多く、タイトル通りの「散文」にすぎないでしょう。しかし、その後につづく「ただし、ルール」の部分が響く人もいればそうではない人もいると思います。「すごく面白い映画だよ!」と気軽に自分の友人に薦めるかといえば、たぶん、気に入ってくれる友人は何人か浮かぶけれど、もちろん薦める人を選ぶ映画です。

 ただ、この映画を見てからの数ヶ月、私は、自分が子どもの頃、夜が来るたびに泣いたり、悲しいニュースを見て眠れなくなっていたことを思い出すようになりました。生きていくために薄めていくようになった感覚を思い出し、時々不完全な自分の外側の世界で生きることがつらいな、でも、薄めておくか、と思う時、『散文、ただしルール』を思い出して、そこに「切実だ、つらい」、という気持ちが存在していいのだ、と思うようになりました。そして、どうでもそれが耐え難い人は内的世界からの対抗手段として作品をつくるのだなと思ったりしました。神経も体力もつかう製作それ自体が痛切な癒しになるのかもしれないと思ったりします。

川上さわ監督は、「そのうちその静かなうずまきが、確かに世界の方にも漏れ出てくるから!」(カナザワ映画祭HPより)と語っています。猟奇的な殺人事件は、最もエキセントリックなモチーフのひとつで、実際のところ日々の生活の中で内面の世界を崩しうる出来事はあまりにも多く、突き刺さる鋭利なものから心身を守りながら生き抜くことは極めて困難です。撮る、という行為は耐え難い現実を映し出す場合もありそれも非常に重要なことではありますが、その中を生きていくための砦としての役割を果たすこともあるのかもしれないと考えるようになりました。

 たった1人の葛藤しかなかった世界も、他者に視聴されるメディア作品になれば、誰かのいる世界になります。ものすごく大衆的ではなくても、わかりやすく理解できる映画ではなくとも、表現をすること、撮ることやつくることそれ自体に意味があると思いました。万人が持ちうる感情や苦しさを描かなくても、自分が感じていた痛みと近い映像が存在していると、1人だけではないと安心することがあります。だからこそ、極めて主観的な要素を含んでいる「痛み」についてはさまざまな人たちがもっと当事者として、撮ったり声を出したり、作品にするということをもっとしても良いのではないかということも、最近は考えることが多いです。

 私はもうすぐ大学院を修了します。見る、分析・研究・批評する、つくる、さまざまな領域を横断しながら、これからも考え続けたいと思います。