「原爆の絵」の運動について

今回のフィールドレビューは修士1年の矢野がお送りします。被爆者をはじめとする市民とNHK広島放送局が協力して取り組んだ「原爆の絵」の運動や、それに関係するテレビ番組についてお伝えしようと思います。

「原爆の絵」の運動とは、ある被爆者の男性がNHK広島放送局に自身の被爆体験を描いた絵を持ち込んだことに端を発する、被爆者自身が被爆後の広島市を絵に残して被爆体験を後世に継承しようとする運動です。NHK広島放送局は男性の絵をきっかけとして、被爆30年にあたる1975年に「原爆の絵」を募り、NHK広島放送局には2200枚あまりの絵が寄せられました。この時の「原爆の絵」について作られた番組が『市民の手で原爆の絵を』(1975年8月6日、45分)です。絵と、それを描いた被爆者本人による状況説明、絵にまつわる記憶が解説されています。この番組は全国放送されて大きな反響を呼びました。

NHK広島放送局は2002年にも、広島市と協力して「原爆の絵」を募りました。この時は725枚の絵が寄せられ、一部が『原爆の絵 ~市民が残すヒロシマの記録~』(2002年8月6日、58分)で紹介されています。1975年の番組『市民の手で原爆の絵を』とは異なり、絵が描き手・被爆者にその後与えた影響に焦点が当てられていました。また、この時重要な役割を果たしていたのが、原爆の絵を検索可能にしたデータベースです。広島平和記念資料館では、市民から寄せられた3000枚以上の「原爆の絵」をデータベースにし、ウェブサイト上で一部を閲覧可能にしたり絵の閲覧申請を可能にしたりしています。場所、日時、状況を打ち込んで検索するとデータベース上で条件を満たす絵が提示されます。

『原爆の絵 ~市民が残すヒロシマの記録~』では、例えばある被爆者の男性が、道端に倒れている母子の絵を描き、自分と同じ状況を描いた絵をデータベースで探していました。男性は母子を見かけた当時、顔を確かめずにその場を離れましたが、その後自分の母・妹と再会できずじまいで、道端で見かけた母子が母と妹だったのではないかと推測するようになりました。母子が母と妹であるかその場で確認をしなかったことを60年近く後悔し続け、絵に表したといいます。そしてデータベースで同じ母子を描いた絵を探し、絵の描き手に会って当時の話をしてもらうことで、母子が自分の母と妹であることを確信しました。男性は長年の謎を解いてくれた絵の描き手に感謝し、絵の描き手も「長い間忘れられなかった母子にゆかりのある人と直接話をすることができてうれしい」と感極まっていました。

また、被爆死した娘の最期の状況を詳細に知りたいと願った女性は、広島平和記念資料館に絵の閲覧申請を行いました。娘の被爆場所や状況に合致しそうな絵を複数枚閲覧し、それまで人から伝え聞いた話より詳細に娘の最期の様子が分かったと語っています。

「原爆の絵」の運動から生まれた2本の番組は、NHK広島放送局というテレビ局が、原爆に関する記憶の継承について市民と協力する過程で生み出された絵を題材にしている点、番組制作の過程で被爆者自身の「原爆の記憶」のあり方に変化をもたらしている点などが興味深いと思います。このように、テレビ局が原爆に関する記憶の継承について働きかけてきた事例に注目して研究を進めたいです。

「原爆の絵」の運動は広島の被爆者の苦しみや悲しみの記憶を絵という形でよく集めているとは思います。しかし、「原爆に関する記憶」はそれだけではありません。広島市がもともと軍事拠点であったことに由来する広島の加害性や被爆した外国人の複雑な思いなどが3000枚の「原爆の絵」には表れて来にくいのではないかとも考えました。この疑問も大切にしながら学びたいと思います。