今日マチ子『cocoon』

今回のフィールドレビューは博士課程の萩原が担当いたします。本日6月23日は沖縄慰霊の日です。今から69年前の1945年6月23日、沖縄戦の組織的戦闘が終結しました。今年も沖縄本島南部の糸満市では戦没者追悼式が開かれています。アジア太平洋戦争末期の沖縄戦では激しい戦闘の中で沖縄県民の4人に1人が亡くなりました。

しかし、私達現代の人間がこのような歴史を学ぶとき、その対象が遠く、大きくなればなるほど、関係を築くことが難しくなります。例えば学問として扱うときに、どのように歴史と距離をとることがベストなのでしょうか。

私には沖縄の知り合いや親戚はおらず、沖縄を初めて訪れたのも大学生になってからでした。したがって私と沖縄戦を繋ぐ個人的な関係というものは極めて希薄なのです。もちろん私とは違って沖縄で生まれ育った人にとって、沖縄戦は身近で生々しささえも感じられるかもしれません。このように関係性とは個々人によって異なり、沖縄戦だけではなく、自分とそれ以外のコト、すべてに言えることでしょう。

私にはこの時期になると読みたくなるマンガがあります。漫画家今日マチ子さんの『cocoon』(秋田書店)というマンガです。この作品は沖縄戦をモチーフにして、戦傷者の看護に駆り出される女学生たちを主人公としています。主人公のサンは、女学校で人気者のマユやそのほかの友人たちと共に戦争を経験していきます。

cocoon2

「憧れも、初戀も、爆撃も、死も。」と帯に書かれているように、激化する戦闘の中においてもサンたち女学生は「少女」です。ガマの中でも手鏡を手放さなかったり、重症患者の部屋でお絵描きをして騒いだり。そしてサンは人気者のマユに憧れを抱いており、反対に、マユはサンを守るためには人をも殺します。ここで作品のキーワードとなるのは「繭」です。マユはサンに対して自分たちが繭に覆われ守られた蚕であり、孵化することができるということを言い聞かせます。

この「繭」という想像力には少女性が付与されています。彼女たちは想像によって厳しい現実から逃避することもできます。その性質は純粋でもあり、清廉でもあり、狡賢くもあり、自己中心的でもあり、空想的でもあり、夢想的でもあります。

歴史を学ぶときに想像する少女と戦争と、この作品の描く少女と戦争は少し視点が異なると言えるでしょう。例えばひめゆり学徒について学ぶとき、とにかく少女たちとそれを取り巻く凄惨さが強調されるように思います。反対にこの作品では、少女の想像力という「繭」と凄惨な戦争の現実を行ったり来たりしながら、物語の中で虚構と事実を行き来します。もちろんどちらが良くてどちらが悪いとかいう話ではありません。

この作品から得られるのはある対象との距離、関係性の築き方だと感じます。私にとって、戦争の中に少女性はありませんでした。なぜなら歴史の勉強では少女たちの憧れも初戀も空想もさほど重要ではないと考えていたからです。しかしこの作品を読んだ後、「もしかしたら現実の女学生たちも私達の知っているような少女だったのかもしれない。」と思いました。このことによって、私と沖縄戦は「史実とされていること」と「フィクションとされていること」とが交わるような関係になったような気がします。

対象とどのような関係性を築くのか。換言すれば、どのような姿勢で対象と向き合うのか。この問いは学問においても、あるいはもっと広く歴史や現実を認識することにおいても極めて重要であると思います。