みなさんこんにちは。今回のフィールドレビューは博士課程の萩原が担当いたします。時がたつのは早いもので、博士課程も2年目に入りました。
博士課程の2年目にもなると、今まで自分が取り組んできた研究を、博士論文としていかにまとめ上げることができるのかといったことを考え始めます。「研究とはいかなるものなのか、研究者とはいかなる者であるべきなのか」といったような根本的な、けれどとても難しい問いが浮かんでは消え…といった状態に陥ったりします。
私自身は現在、雑誌メディアを中心に研究を進めていますが、そもそもなぜ雑誌というものにこだわっているのか、自分でもわかりません。しかし、何かを思考するときに必ずと言っていいほど私たちが規定されてしまう「言葉」には興味があります。更に最近では、その「言葉」と「文字」との関係にも興味がわいてきました。
そもそも日本には「声の文化」と呼ばれるものがあったそうです。代表的なものだと、落語や琵琶法師など、声で何かを表現する文化です。これらは文字化されない文化であり、例えば落語が文字化されたのは明治に入ってからだそうです。
そのような「声の文化」には大切な表現方法がありました。その一つは擬声語や擬態語といったオノマトペです。しかし「声の文化」が失われていく中で、これらの表現方法は冗長なものとして消失していきます。「声の文化」の次に現れたのは「文字の文化」でした。「文字の文化」には「声の文化」において大切であったオノマトペが、邪魔なものになってしまいます。
ただし、現在でもオノマトペが重要な役割を果たしている「文字の文化」もあります。それは児童文学です。昔、自分が読んだ絵本や児童文学を思い浮かべれば、なんとなくわかりますよね。特に宮沢賢治の童話などは、極めて多様な東北方言のオノマトペが散りばめられています。
少し脱線してしまいましたが、私たちの慣れ親しんでいる文化はやはり「文字の文化」なのではないでしょうか。
大学院へ入ると自ずと必要となってくる修士論文や博士論文、査読論文などの業績はやはり文字として残さなければなりません。もちろんそれは研究領域によって異なりますが、論文を正式な業績として扱うという場合がほとんどなのではないでしょうか。社会学者であった清水幾太郎は「文字に仕えるのが詩人であり、私たち学問を指向する者は文字を使う者だ」と言っています。要するに、学問を志す者は論文という形で文字を使い、自らの価値を、自らの研究の価値を表明していかなければならないということです。
「文字の文化」が成立することによって様々なものが消え、新たにたくさんのものが作られてきました。例えば、文字化という作業では、ほとんどの場合標準語が使われます。最近、私自身の研究で地域運動を調べていますが、彼らが発行した同人誌でも標準語が使われています。今現在でも「声の文化」は方言という形で多様性が残っていますが、「文字の文化」では標準語に代表されるような統一化が日々行われています。
また、この文字化という作業にはメディアが深く関係しています。今ではこの「文字の文化」は「活字の文化」とも言い換えることができます。自らの手でノートに書くこと、原稿用紙におこすこと、活字として冊子にすること。これらはすべて同じ文字化とはいえ、メディアを異にする、全く異なる作業です。これらの中で、現代社会に普遍的に溢れかえっているものは、ほとんどが活字化された文字です。もう現在ではすでに手書きを経ずに、直接活字化することがほとんどかもしれません。活字が正式な書体として扱われるわけです。
そこで、「声の文化」「文字の文化」ときて、次に来るものは何でしょうか。そのうちの重要なもののひとつは「映像の文化」だと思います。これだけ社会に映像が溢れている状況では、私たちはすでに「映像の文化」の中にいるとも言えます。丹羽研究室に在籍していると尚更、「映像の文化」を強く感じます。文字では全く伝わってこないことも、映像にすると簡単に感じ取ることができたりしますよね。そこに文字の限界があると思います。「声の文化」から「文字の文化」へ変化するときに、オノマトペや方言が文字から消失しました。「文字の文化」から「映像の文化」へ変化するときに、私たちは何を失うのでしょうか。あるいはもうすでに何かを失っているのでしょうか。
以上、最近研究の中で考えていたことを、まとまりを欠いていますが、書かせていただきました。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。