研究をするということ(雑感)

こんにちは。今回のフィールドレビューは、博士課程2年の松山が担当させていただきます。月日が経つのは早いもので、博士課程での在籍も中間地点を迎えました。

博士課程2年ともなってくると、否が応でも、博士論文のことを意識してきます。通常3年間で書きあげる博士論文は、長い学生生活の「集大成」として、あるいは、同世代の仲間達が就職していくなかで研究職を選んだことへの「総決算」として、自らの位置を確定する、大切な作業であると言えます。

そうすると、自然、「研究とは何か」「論文を書くとはどういうことなのか」といった原理的な問いを、日頃から考えるようになります。この本質的な問いを未熟な私が答えることはできません。ですが、ひとつ感じているのは――特に社会科学や人文科学の場合――、研究の核心にはやはり「自分」という存在があって、研究とは、自分の感性でとらえたものを論理的に再構成する営為なのではないか、ということです。つまり、究極的に言えば、研究とは、自分自身のための研究でもある、と言っていいかもしれません。かつてウンベルト・エーコは、そのための「手順」を6つに分けました。

(1)具体的なテーマを探し出す。

(2)当のテーマに関する資料を収集する。

(3)これらの資料をきちんと整理する。

(4)収集した資料に照らして、テーマをゼロから検討し直す。

(5)先行の諸考察全体に有機的な形を付与する。

(6)論文を読む者が、そこに書かれている意味を理解できるように、またできれば、読み手が自らそのテーマを再考するために同じ資料を繙くことができるようにする。

以上をまとめてみれば、論文を書くために必要なこととは、第一に「洞察力」、第二に、「収集力」、第三に「構成力」、そして第四に「筆致力」、ということになります。前回のフィールドレビューで萩原さんが大変面白く書いていたのが、収集力についてだったと思います。これら4つの能力を総合することで、論文というものが完成する。余談ですが、私にはどうしても筆致力が足りません。清水幾太郎によれば、筆致力をつけるためには、とにかく自分の好きな文章を真似ることだと言いますが、この能力だけは、今日明日でつけられるようなものではないと自分自身も痛切に感じていて、日々訓練しているところです。

さて、哀しいかな、こうして書きたいテーマが見つかって、論文を書いていくという自分の作業は、博士課程になると、「業績づくり」というものに回収されていきます。友達と会っても、誰々が何本査読を通ったとか、何回学会発表に行ったとか、そういう事が話題の中心となり、「業績」がその学生のステータスとイコールになってきます。もちろん、私の頭のなかもそのことで支配されるようになり、次第に「何のために研究しているのか」という原理的な問いを見失いそうになります。それは、かつてマックス・ウェーバーが「大学に職を奉ずるものの生活はすべて僥倖の支配下にある」と言ったように、特に博士課程の学生には、不安定な立場に晒されているという怯えがあるからに他なりません。ですが、研究をする以上、当該領域に対して、何らかの貢献ができるような論文を発表していくことが第一の目標となりますから、就職のため業績のための研究という思考回路を、いかに断ちきって研究を行っていくかということが、私の今後の博士課程での課題となってきます。

私は、修士から数えると約4年間、学際情報学府・丹羽研究室に在籍していることになりますが、丹羽研究室で学んだことは、研究が、机上の営みだけに閉じるものではないということでした。研究とは何も図書館に籠ることだけではない――決してそういう研究スタイルを批判しているわけではありません――。様々な研究者に出会い、あるいは自らプロジェクトをプロデュースしていくことによって、自らの関心領域を広げ、そこにふと落ちている、最初は小さくても大きくなる余地のある、研究の「種」を見つけていくこともまた、立派な研究活動と言ってもいいのではないでしょうか。そのための素地が、この学際情報学府という組織にはありますし、丹羽研究室にはあると、最近特に感じています。

以上、最近思っていることを、脈絡のないフィールドレビューではありましたが、書かせていただきました。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。