「手」

今回のフィールドレビューは研究生の王楽が担当させていただきます。異なる文化、異なる時代で作られた映像から、自らの体験やその時の感覚を思い起こすことはできるでしょうか。今回は私の小さい頃の思い出を紹介しながら、ドイツとアメリカの映画からこの問いについて考えてみたいと思います。

小学校の時、故郷で最後の「公判大会」が行われました。「公判大会」とは罪状が書かれた板を胸の前に掛けられ、後ろ手に縛られた死刑囚たちが、市民の前で罪状を告示され、緑色の軍用トラックに乗らせられ、執刑場へ運ばれる全過程を一般市民に公開されるイベントのことです。

私は連れられて見に行きましたが、暑い陽光、混みあった人々の群れ、苛立った顔、高ぶった雰囲気といった記憶が断片的に残っています。大会の終わり、死刑囚でいっぱいになったトラックが動き始めた時、群集は次々と手を伸ばし高らかに叫び出しました。今でも絶えず起伏していた「手」が脳裏に焼き付いています。人々の手は震えていて、体も震えていました。私も心が震えました。正義の勝利のために他なりません。

一方、中国人だけではなく、ドイツ人も「手」を振り上げて高らかに叫びました。彼らの「偉大な領袖」のために。記録映画『意志の勝利』(Leni Riefenstahl, 1934)では「手」のクローズアップが数多くあります。微笑む民衆たちが手を高く上げて振りながら歓呼したシーンは、ヒトラーのクローズアップ、凛としたナチ軍警備隊員のベルトと軍靴のロングショット、急に止まる背景音楽の行進曲と木霊する「Heil Hitler!」とが混ざり合うように編集されています。結局、観衆は映画の中の人とヒトラーとともにヒステリーになりました。

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救世主が降りる過程に基づいて構成されたこの記録映画は宗教映画であるとも言えます。ここでは「手」が宗教的な記号とされています。この映画はお洒落なモンタージュを用いて、長い時間をかけて具体的な意味のない動きを何度も繰り返しています――ヒトラーが右手を後ろへを振り上げると、道の両側の民衆たちは手を伸ばして彼の動作に返事をするシーンなど。このような映画表現はプロパガンダに濃厚な宗教性を込めています。

(個人崇拝にとっては定型表現とジェスチャーが不可欠なものだと思われます。たとえば、文化大革命の時、友人同士が会う時、必ず話す前に手で『毛主席語録』を掲げたまま、「主席万歳无疆」と言わなければならないことと同じです。)

キリスト教の教義によると、「手」はイエスに一番近い身体部分として、もっとも強いパワーを有するもののようです。それ故、第二次世界大戦の間、アメリカ軍が入営教育のために製作したプロパガンダ記録映画の中では、敵である日本人の「手」のイメージに対するクローズアップが珍しくありません。『Why We Fight』シリーズの『Know Your Enemy: Japan』(Frank Capra, Joris Ivens , 1945)では、「万歳」+「手」にも宗教色が見られます。一方、両腕を伸ばして「万歳」を高らかに叫ぶ主体は「天皇崇拝の日本国民――日本軍――東条英機へ敬意を表する大衆」という転換過程があります。

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東条英機を取り巻く「手」は、狂喜の日本軍とともに天皇崇拝の敬仰を表す「手の波」を代替して世界を征服する「手」になってしまうような燥熱な雰囲気を纏っています。そして、世界各地で勝利を収め、歓喜しながら両手を振り上げる日本軍のシーン、戦死したアメリカ軍人、各国平民の屍体のクローズアップを組み合わせることによって、これら伸ばされた「手」こそ、人を殺した元凶だということを観衆に伝えようとしたのでしょう。

しかし、私の祖父はこの「手」について新たな解釈を与えました。

ある春節、家族全員がテレビの前で日中戦争を主題としたドラマを見ていた時、いきなりいつも無口な祖父は話し出しました。祖父は日中戦争の体験があります。当時、彼は戦場で死んだ兵士の武器を取り上げる仕事を任されていました。ある日、祖父はいつもより苦労して死体から武器を取り上げました。その死んだ日本兵の「手」が非常にしっかりと銃を掴んでいたからです。祖父はやっとのことでその兵士の手を開けて銃を奪いました。

「あの日本兵の手は豆の大きさぐらいのたこができていた。たこのできたところは銃を握る時に使うところではない。俺達と一緒だ。たぶん、日本兵も俺たちと同じく鋤を使い、斧を使う農民だったのだろう」

十何年後、孫娘の私は自分の研究対象のビデオ三十本を何度も繰り返して見ています。それは日本人が当時の植民地「満洲国」で製作した記録映画です。その中には、日本本土から開拓民を引きつけるため、農業開拓に関する映像が多々あります。その中に、ある一つの長回しのシーンがあります。

日本軍が先頭に立って田畑を耕すシーンです。映画撮影について何も知されず戸惑ったまま、日本兵たちはズボンと袖をまくって田畑に入って作業をはじめました。農業道具に熟練した腕で、地元の中国人と一緒に牛車を引いたり鎌を使ったりしていました。このカットなしの長回しのシーンで、自然のままに農作業をしている日本人兵士の姿から演技の跡は全然見られません。

この十何年間ですでに忘れられた祖父の話の記憶は私の顫動した心の中で突然思い起されました。その記憶は極めてはっきりした形で戻ってきてしまいました。そして二度と忘れられません。

もし映像に神秘的な力が存在するとしたら、それは映像の視聴者が、異なる時代、異なる国、異なる民族、異なる言語、異なる文化の作家の作品から、自らの体験を読み取ることができるということです。他人の感覚が自分の感覚になった時、成長とは、人生とは一体何物なのかということについて少し悟ることができるかもしれません。

『意志の勝利』と『Know Your Enemy: Japan』における「手」の描写は、小学生の私が「公判大会」を見た時の感覚を思い起こしました。

「おぉ、これこそ映像だ」と私は思います。