博士課程の田中です。今回は海外における対日理解に影響を与えた番組『ヤンさんと日本の人々』(1983・1988,国際交流基金)をご紹介します。
『ヤンさんと日本の人々』は、日本と諸外国との国際文化交流事業を担う国際交流基金によって1980年より制作が開始された番組です。第1話から第13話までが1983年に、第14話から第26話までが1988年に完成しています。制作の発端は、オーストラリアや米国、中国や韓国など、国外からの要請でした。当時の日本の経済力や科学技術力、社会や文化などへの強い関心とともに加熱した海外における日本ブームに伴い、各国からのテレビ放送番組提供の要望が高まり、日本語と日本文化を紹介するストーリー仕立ての番組として作られたのです。
完成後は、まずアメリカ、カナダ、オーストラリア、フィリピンなどでテレビ放送され、韓国KBSやブラジル教育テレビ、中国中央電視台などが放映する教育番組の中で素材としても利用されました。また、VHSに収録されたものが教材として頒布されもし、広く視聴されました。通常のテレビ番組としても放映されたことから、ビジネスや研究、婚姻など日本と特別な関係を持つ人々はもちろんのこと、そうではない、広く一般の人々にも日本や日本文化、日本語に触れるきっかけとなった番組と言えます。
制作プロセスと体制
制作は株式会社ビデオ・ペディックが請け負い、木村宗男や阪田雪子、白石克己、高島昭一ら有識者の提示するトピックや内容をもとに長崎武昭によって脚本が作成され、瀬川昌治が監督しました。
主人公の建築家「ヤンさん」は、仕事の一環で日本に滞在し、さまざまな人々と交流を深めながら日本の社会と文化を体験します。視聴者は、そのストーリー展開を楽しみながら、場面別の表現や日本の慣習、さまざまな事物や事象に触れることができます。番組には関連資料として、各話のシナリオや翻訳、解説書、サウンドトラックテープなども制作され、世界各地で利用されました。
委員の一人である佐久間勝彦は、基本コンセプトとして、《楽しさ》《自然さ》《現代性》を据えたと後に語っています(佐久間(1990)「国際交流基金企画制作の海外放送用番組『テレビ日本語講座初級 I 』について」『放送教育開発センター研究報告』放送教育開発センター,29,pp57-62)。一見、当たり前にも見える項目ですが、それまでの世界各国における日本理解には一種の偏りが見られるという問題意識の下、「サムライ・スキヤキ・ゲイシャ」にとどまらない“今”の日本を多面的に描こうという意識がそこにはありました。また、それまで、あまり製作されることのなかった海外向け映像番組というメディア形態や特徴を存分に活用したものとなるよう多くの工夫が凝らされました。 こうしたコンセプトや体制で作られた本番組は、職場での仕事や近隣住民との交流、さらには恋愛に至るまで、「ヤンさん」を中心に実に人間味豊かに描かれたものとなっています。
『おしん』ブームの先駆けとして
国際交流基金30年史編纂室が刊行した『国際交流基金30年のあゆみ』(2006)には、『ヤンさんと日本の人々』に関する記述があり、「同テレビ講座は,その後のNHKによるロシア向けテレビ日本語講座の先駆けとなったばかりでなく、翌1984年(昭和59) から始まったアジア地域視聴覚特別事業の開始に受け継がれ、後述のテレビドラマ『おしん』の爆発的人気化の先駆けをつとめたと言えよう」(41)と述べられています。
『おしん』とは、1983年度に放映された橋田壽賀子原作のNHK連続テレビ小説(第31作)で、全297話放送されたNHKテレビ放送開始30周年記念作品です。平均視聴率52.6%(最高視聴率62.9%)という驚異的な数字が物語るように、日本国内で絶大な支持を受けました。
実は、この『おしん』、国際交流基金によって海外36カ国で放映されたのを皮切りに、今日までに計68カ国の放送局で配信され、世界各地で『おしん』ブームを巻き起こしました。小林綾子が演じる少女期おしんや、田中裕子が演じる青春・成年期のおしんが、貧しさや苦難の中で人と出会い成長する姿が世界各国の人々の心を打ち、中国では少なくとも2億人が視聴したエピソードや、放送時間帯に街中から人が消えてしまった国々のエピソードなど、海外での人気を象徴する出来事も枚挙にいとまがありません。 高度経済成長後の日本で徐々に薄れゆく貧困や苦労、人と人との密な関わり、義理や人情、といったかけがえのないものを問う『おしん』ブームは、国内のみならず、海外でも人気を博していたのです。そして、その支えとなったのが国際交流基金による海外放送事業であり、その先駆けとなったのが、今回ご紹介した『ヤンさんと日本の人々』という海外放送用テレビ番組の制作だったのです。
日本メディアの海外発信事業と果たした役割
テレビ番組以外にも、1980年代は、新聞や雑誌、書籍など数多くのメディアが海外に発信された時代でした。それは「新聞や雑誌、書籍を郵送する」という、物理的な移送に関しても行われ、政府や自治体による事業はもちろんのこと、民間による市民運動としても取り組まれました。最も大きな規模で行われた「日本語教材を送る会」では、中国に対し実に130万冊の書籍や雑誌などが送付された実績もあります(朝日新聞,1985年6月12日)。
インターネットが登場する前の、物理的な国際的な文化ネットワークが、番組や書籍の送付で行われていたことを知ることはとても重要であると思われます。日本の言葉や文化、社会をアナログにつないだ取り組みからは、人々の世界に向けた日本発信の軌跡を知ることができ、また、その内容からは、世界に届けられた日本、伝えたいと思われた内容、世界が欲した日本、というものも垣間見えるのかもしれません。