ウクライナ 愛国的革命運動or野党抗議

今回のフィールドレビューは研究生のバリコーヴァ・ニーナが担当させていただきます。私が東京大学で行いたい研究の目的は、簡単に言えば、様々な国のメディアは世界各国の最も重要な事件にどう対応するのか、ということを明らかにすることです。

その目的を達成するために、もともとはチェルノブイリと福島原発事故の報道を話題としていました。しかし先日、それとは関連の少ないある出来事があり、私の直接な研究課題以外のことでも、メデイアの働きを十分明らかにできると考えました。それは一体どんなことなんでしょうか。

私の母国、ウクライナ、1991年にソ連から独立し、成長したヨーロッパの国々の一つになるように活躍し始めました。しかし、北・東にあるロシア連邦にも強い経済的・政治的・文化的の影響を浴び続けていた状況で、明確な政治上の指向がなかなか作られませんでした。ウクライナ人は自分の国がヨーロッパの大事な部分だと感じていながら、ロシアとの親しい関係も切ってはいけないということもよくわかり、その二つの反対方向の間でずっと迷っていました。

それでも、欧州連合加盟の期待を一瞬も忘れずに、それを目指してどんどんと進みました。現職大統領のビクトル・ヤヌコビッチも選挙のときその政策に従うという約束をし、最近までそれを守ろうとしていて、今年の11月28日にリトヴァニアで将来のEU加盟の前提となる「連合協定」を署名するつもりでした。ただ、その準備を行う途中の11月21日に、ウクライナ政府は突然締結に向けた準備作業を取りやめると発表して、むしろロシアとの関係を強めるという期待を述べました。

それに対して庶民の反応は驚くほど早かったのです。大抵の人々は政府に裏切られたという感じが深くて、同日にソーシャルネットワークを通して首都キエフ中心部に集まって抗議しよう、という呼びかけのメッセージが早速に普及しはじめ、その夜にはもう何百人がキエフ中心にある独立広場に集まりました。それ以降抗議運動がもっと強まり、昨日数千人が広場に集まり、いろんな野党政治家も力を合わせました。

ここで興味深く重要なのは、その運動はもともと市民たち自身が起こしたものです。政治家は別として、ウクライナの国民は自らその抗議を述べようと強く感じて、新しい「オレンジ革命」を起こそうと呼びかけて来ました。なぜなら、庶民たちにとってそれはただの抗議ではなく、自分たちの国の未来と自分の権利を守って、豊かで本当に民主的な国に住む夢を実施する為の大事な愛国運動であると考えられます。

国民たちは雨でも零下でも、独立広場にずっと残っていて、食べ物と暖かい服装を分かち合い、一緒にウクライナの国歌を歌い、自分たちの将来を守るための「新しい革命」を作っています(興味深いことに、2004年のオレンジ革命も11月22日に始まりました)・・・いろんなウクライナのメディアには、ほかの国の国民たちまで自分の町の広場に出たりウクライナ人を応援しようと集まっていたりする映像も出てきました。

私はそのニュースをウクライナにいる家族に聞いて、様々なウクライナのソーシャルメディアなどを読み、その庶民たちの希望と抱負をとても強く感じましたが、それは私こそがウクライナ人だ、ということだと思わざるを得ませんでした。そのあと英語圏の記事も読んだのですが、「こんな大事なことであれば、日本のメデイアでも報道された可能性がある」と思って、遠く離れた国の放送はこの出来事をどう扱うのかを非常に興味深くて、それについて調べてみました。

ウクライナではこの抗議運動を「EU広場」か「EU革命」と呼んでいますが、もちろんそのようなことばを使って日本語で検査するとあまり何も出ないので、いろんな選択肢を使ってみました。では、やはり一番多い結果を出すのは「EU抗議」という言葉でした。そして、すぐに気がついたことは、その抗議は市民的・権利的な文脈ではなくて、野党政治の文脈で描かれたものでした。

つまり、市民の愛国から生まれた革命ではなく、野党指導者の争いから現れた抗議運動というニュアンスが明らかに見えました。ここではNHK News Webのサイトで見かけた「EUへの加盟を求める野党勢力が中心となって、首都キエフで大規模な抗議デモや集会を行い、一部が警官隊と衝突する騒ぎとなっています」というフレーズが圧倒的多数のようでした。

私は、それこそが非常に興味深い問題であると考えています。なぜかというと、記者か放送担当者が経験者たちから距離的に・環境的に離れれば離れるほど、その報道の細かいディテールに差が現れるはずです。更に、その差は良いものか良くないものか、はっきりと言うことができないでしょう。

なぜなら、一方では、ある行為に直接に関係がない人がもっと客観的な立場を持ってその行為を描けるはずではないかと考えられますが、他方ではその行為の表面を見るだけで見つけることができない微妙な事情・原因・きっかけなどがあって、それを見落とす恐れが非常に高くなるのではないでしょうか。

そう考えれば、原発事故の問題も似た特徴があるのではないかと思いました。やはり事故を経験していない人たちはもっとしっかりした分析を行うことができるかもしれませんが、その瞬間的な情勢を感じる・知るわけではないのです。この事実を認識しながら、もっと網羅的なメデイア知識を築いていきたいと思っております。