こんにちは。今回のフィールドレビューは博士課程の朱が担当いたします。今回は、私が最近ハマっているドラマについてお話ししたいと思います。
東海テレビが製作し、2024年1月からフジテレビ系列にて放送された『おっさんのパンツがなんだっていいじゃないか!』(以下、『おっパン』)は、今年6月28日(土)にスペシャルドラマが放送され、さらに7月4日(金)から映画版の上映も始まりました。現在はNetflixにてTVドラマ全話が配信されています。リアルタイムでの視聴を逃した私はこれを機に視聴しました。

放送当時から高い人気を博していたようですが、実際に視聴してみて、その理由がよく理解できました。でもなぜ私はこのドラマにこれほど惹かれたのでしょうか?考えた末たどり着いたキーワードは、「抵抗」でした。いわゆる「メジャーな考え」に対する抵抗の姿勢が、ドラマの随所に見られました。
『おっパン』が扱う話題は多様ですが、特に焦点が当てられていたのは、マイノリティ、家族、そして世代という3つのテーマだと思います。今回は、その中でもマイノリティに関する描写に注目し、私がそこに見出した「抵抗」の物語についてお話ししたいと思います。
1.従来の知の枠組みに回収されない性の多様性
『おっパン』の主人公・沖田誠(原田泰造)の息子・翔(城桧吏)の友達であり、のちに誠の友達にもなる五十嵐大地(中島颯太)はゲイで、同性の恋人がいます。誠は当初、「君といて、ゲイがうつったら困る」(第1話)と発言し、翔が大地と友達であることに反対していました。それに対して、大地は笑いながら「影響されて変わるなら、俺も女の人を好きになってますよ。だって、世の中には男は女の人を好きになるべきだって考えてる人が多いから」(第1話)と反論します。
誠はその後、「古い思考」を持っている自分をアップデートするために、大地と友達になりました。大地がゲイであることに戸惑いつつも、誠は彼の感情を理解しようと努力していました。ただし、誠のゲイに対する理解はまだ非常に限定された枠組みにとどまっています。二人が初めて話した時、誠は大地を警戒していたようです。その様子に対して、大地は「ノンケの人って、どうしてか分かんないけど、ゲイを見ると、自分が対象だって思うみたいだけど、俺にだって、好みはあります。自分が対象だと思うって、すごい自信ですよね」(第1話)と突っ込みます。
「性的指向の異なる人への接し方は習わなかったし、知らなかった」。その結果、自分が知っている既存の「恋愛」の枠組みに当てはめ、「自分がターゲットになるのではないか」といった、現実にはあり得ない結論に辿り着いてしまうことが鋭く描き出されています。
同じような場面は、翔の学校でもありました。翔はいつも女子と一緒に行動して、中学の時に告白してきた女子を全員断ったことがありました。それで、野球部の男子2人と、翔と仲がいい長谷川の3人の間で、次のような会話が交わされます。
宮野 「あいつ、ゲイってウワサあるよ」
星崎 「長谷川、お前、狙われてるんじゃない?」
宮野 「うわ、お前、ちゃんと断れよ」
長谷川 「…」
星崎 (宮野に対して)「お前も狙われてるんじゃない?」
宮野 「なんで?やめてくれよ」
(第7話)
誠や翔の同級生たちは、それまでの知識だけでは理解の範疇に超える事象を、無理やり自分の理解可能な枠組みに当てはめようとしてしまい、そのことが結果的に問題になります。「ゲイは男性が好きです→自分も男性です→自分はターゲットになりえます」というロジックは、一見するとわかりやすく感じられるかもしれません。しかし、よく考えてみると、人と人の関係性は恋愛だけではなく、実に多様ですし、日常生活の多くの場面では、恋愛が話題にならないことも多く、そもそも恋愛について言及する必要すらない場合もあります。
性の多様性に対する理解を従来の知的枠組みに回収されることを拒む存在として、翔というキャラクターが生まれたのだと思います。大地が誠にとって「理解可能なギリギリの次元」にある存在だとすれば、翔は誠にとって「理解不能」な次元でした。翔は男性ですが、女性の服装やメイクが好きで、「キレイになりたい」と誠に話します。とはいえ、自分が男性であることに違和感を持っているわけではなく、男子の制服にも抵抗はありません。また、ギャルの女子とも、野球部の男子とも仲良くなれます。「翔は一体?」「お前は、どんな相手となら生き生きできる?お前らしくいられる?」(第7話)と、誠は状況を理解するための枠組みを見失ってしまいます。そして、翔のことをもっと理解しようとするあまり、誠は「男性が好きなのか、女性が好きなのか」という、自分が理解できる枠組みの中に翔を押し込もうとしてしまうのです。
誠 「父さんは、翔が誰を好きでもいいと思う」
翔 「えっ?好きって、誰が誰を」
誠 「だから、お前が先の子」
美香 「あっ、公園の男の子かも」
翔 「公園?」
誠 「父さんが話してるのを見かけたんだ」
翔 「どうして、どうして誰かと仲良くしてると、すぐに好きとか、つきあってるとか考えるの?そういうふうに決めつけられると苦しくなる。僕はただ一緒にいたい人と一緒にいて、話をしたり、いろんなことを教えてもらったりしたいだけなのに。嫌いなんだよ。…もう放っといてよ!」
(第7話)
誠だけではなく、いわゆる「古い価値観」を持たず、子どもと良い関係を築いてきた彼の妻・美香(富田靖子)も、その状況に対しては同じような考えを持っていました。翔は、自分でもまだよくわかっていない個性を、恋愛関係という枠で決めつけようとする両親に怒っていました。翔の怒りはまさに、「多様性」を従来の理解の枠組みに押し込めようとすることへの抵抗ではないでしょうか。
多様性を直接的に訴えるのは難しいことです。だからこそ、『おっパン』は視聴者の理解範囲内にいる五十嵐大地というキャラクターを通じて、「決められない、決めなくてもよい」という姿勢を、翔というキャラクターによって表現したのだと思います。多様性に対して、「何かしらの明確な結論を持たなくてもよい、今ある知識ではうまく理解できなくてもよい」というメッセージを伝えたと思います。言い換えれば、これは既存の価値観や知的枠組みに「押し込まれる」ことへの抵抗の物語として捉えることもできると思います。
2.マジョリティの承認を拒絶するマイノリティ
誠は大地との関係が深まり、アップデートもある程度進んだと感じていました。そんな中、大地が恋人である砂川円(東啓介)とともに、誠の家でバーベキューをすることになりました。アップデートができた自分にどこか満足しているように見えた誠だが、そこで大きな失敗を経験することになります。
萌 「こちらは大地さんの大学の先輩の…」
誠 (笑顔)「ああ、大地くんの彼氏だね」
大地 「誠さん どうして…」
誠 (笑顔)「2人が一緒のところを見かけたことがあんだよ。仲がいいのは結構だね」
円 「いきなりアウティングかましやがって!」
大地 「誠さんは多分アウティングを知らないんだ」
誠 「アウティング?」
円 「あんたが今やったことだよ!俺と大地がゲイだってしゃべった、勝手に!俺たちの了承なしに!自分たちが隠してるのにバラされて、周りの見る目が変わって、それを苦にして、自殺に追い込まれる人間だっていんだぞ!…本人でさえ、なかなか言えなくてつらいのに、他人がそんな簡単に言うなよ」
(第5話)
誠の言葉を聞いて、円が怒りをあらわにしただけでなく、その場にいた人々の表情も険しくなりました。しかし、誠自身は、その状況を全く理解できていなかったようです。彼にとっては、大地と円の関係性に対する理解は、自身の「アップデート」の成果であり、むしろ評価されるべきことだとすら感じていたかもしれません。しかし、マイノリティとしてさまざまな困難を経験してきた人の苦しみを理解しないまま、言葉だけで「理解したつもり」になることは、真の理解とは言えません。
円の怒りには、二つの側面があると考えられます。一つ目は、ドラマでも強調されていた「了承なしのアウティング」に対する怒りです。マイノリティであることが世間に知られることで、自分に対する見る目が変わるかもしれないという恐れから、当事者たちは苦しみながらもそれを隠して生きてきました。そうした背景を理解せずに、誠はあまりにも軽々しく、その情報を口にしてしまったのです。「他人がそんな簡単にいうなよ」と怒る円の言葉は、マイノリティの苦しみに対する訴えが込められています。
二つ目は、善意と理解を前提とするマジョリティの「うぬぼれ」への怒りです。マジョリティによる「承認」に苦しむマイノリティの現状を知らずに、誠は自分のアップデートのことばかりを考え、自身の成長をアピールするために、円と大地との関係性を利用してしまいました。誠は「理解しているから、受け入れるから、もう私の前では隠さなくても大丈夫ですよ」といった「好意」を込めて、円と大地の関係性を「承認」しました。一見すると、マイノリティを擁護する「いい人」に見えるかもしれませんが、マイノリティの苦しみを省みず、「自分はダイバーシティな考え方を持つ人間です」と自己アピールをしているに過ぎない可能性があります。
マイノリティに対する知識や、彼らの苦しみに対する理解を欠いたままの「承認」は、むしろ避けるべきものであり、ときには拒絶されるべきものであることを、本作は提示していたのではないでしょうか。円の立場から見れば、誠は「承認する側」であり、自分たちは「承認される側」という非対称な関係性に置かれていたとも考えられます。そうした上下関係に、円が違和感を覚えていたのかもしれません。マイノリティにとって、果たして誠のようなマジョリティの「承認」は、本当に救いとなるのでしょうか。
3.意味を持たせないマイノリティ
誠の娘で大学生の萌(大原梓)には、車椅子ユーザーの友人がいます。第2話では、大学のシーンに登場し、役名すら持たない「友人2」として、萌と友人1と同人誌の話をしていました。その後、第11話にも再び登場しますが、終始、「友人2」に対する特別な説明はなされませんでした。
日本では、障がいを扱ったドラマは少なくなく、そうした作品には多様な背景を持つ方々が出演されています。近年では、当事者が出演する機会も増えてきています。一方で、いわゆる「障がい」をテーマとしない一般的なドラマにおいては、障がいのある人物が登場することは依然として稀です。つまり、ドラマの中で障がい者が描かれる場合、その障がいについて何かしらの説明が加えられたり、物語上の「意味」を担わせることが一般的であると言えます。
現在の日本では、放送に障がい者が出演する場合、障がいに何か意味があることがほとんどだが、イギリスでは、一般番組にもさまざまな障害者が当たり前のように出演するようになっている。(山田ほか 2019: 31)
確かに、ドラマに限らず、バラエティ番組やテレビCMなどにおいても、同様の傾向が見られるように思います。障がい者を含むマイノリティの可視化にあたっては、ダイバーシティを積極的に前面に出す番組の存在が必要です。しかし、そのような番組にのみ限定されるべきではないのではないかと感じます。
『おっパン』における障がい者の描き方は、非常に優れていたと感じました。それまでの障がいを扱ったドラマとは異なり、特別な意味を持たせたり、特別扱いしたりすることなく、ただ一人のキャラクターとして車椅子ユーザーが自然に登場していた点が印象的です。つまり、特別な目線で見るのではなく、障がいのある方々も日常の中でごく普通に暮らしているという事実を表現することが重要だと考えています。
「友人2」というキャラクターの登場時間は非常に短く、役名も与えられていませんが、そこには役者と制作者の思いが込められていました。演じていたのは、自身も車椅子ユーザーの俳優・田﨑花歩さんでした。
「私は、幼い頃から、お芝居や演劇を見ることが大好きでしたが、自分が出演できるものだと1回も思ったことがありませんでした。それは、私が車椅子を利用しているからというのもあるんですが、俳優というのは健常者がやるものというイメージが強く、健常者しかできないと最初から諦めていて自分の人生の選択肢に役者やタレントというものはありませんでした」(https://mezamashi.media/articles/-/9293?page=2より)
この田﨑さんの言葉には、メディア表現に関する大きな問題点が含まれています。これに対して、プロデューサーの一人である松本圭右さんは、以下のようにメディアの責任について言及しています。
「俳優になるという夢すら見ることができなかったという言葉は重いです。そこは、圧倒的にこれまでの制作側の責任なので。」(https://mezamashi.media/articles/-/9293?page=2より)
情報が過多で複雑化した現代社会において、人々は自らの直接経験の及ばない現実環境を認識するために、マスメディアが提示する「擬似環境」に依存することになります(竹下 1981)。マスメディアは、人々の現実認識の枠組みの形成に対して、大きな影響を及ぼしていると言えます。
メディア表現の中からマイノリティの存在を排除してしまうと、人々の現実認識においても、マイノリティの存在感が薄れてしまう可能性があります。多様な特徴を持つ人々が共に暮らす社会において、それぞれの存在をきちんと表現することは、メディアの責任であると考えます。
意識的に「アップデート」しようとするところでは、ダイバーシティの表現は着実に進んでいます。しかし、普段あまり意識していないところこそ、ダイバーシティの実現にとって重要であると思います。例えば、障がいを主題としないドラマにおいては、主役はもちろん、名前のない端役やエキストラに至るまで、障がいのある方が登場することはほとんどありません。
今後、背景として描かれる街の人々、すなわちエキストラの中にも、車椅子ユーザーや同性カップル、外国人など、実際の日本社会において当たり前に普通に暮らしているマイノリティの人々が現れるようになるのでしょうか?そのような変化を楽しみにしています。
少し長くなってしまいましたが、『おっパン』、皆さんはどのようにご覧になったでしょうか。私は映画版はまだ観ていませんが、近いうちにぜひ観に行きたいと思っています!
参考文献
藤田真文(2024)『テレビドラマ研究の教科書–ジェンダー・家族・都市』青弓社.
竹下俊郎(1981)「マス・メディアの議題設定機能:研究の現状と課題」『新聞学評論』30: 203-18.
山田潔・中村美子・渡辺誓司・越智慎司・大野敏明(2019)「【NHK文研フォーラム2019】シンポジウム 共生社会実現と放送の役割」『放送研究と調査』69(8): 20-37.