修士2年の宮地彩華です。今回のフィールドレビューでは、2021年度のアカデミー賞で「作品賞」を受賞した『Coda コーダ あいのうた』(原題:『CODA』、以下『CODA』と書きます。)について書こうと思います。私は今年のGWに再上映で見てきました。
「CODA」というのは「Children of Deaf Adult/s」の略で、ろう者(Deaf)の家族の中で唯一耳が聞こえる子供を表す語です。エミリア・ジョーンズ演じる主人公の高校生の少女ルビー・ロッシは、父、母、兄、3人のろう者(Deaf)の家族の中に生まれた「CODA」です。ロッシ家は漁業を営んでいて、ルビーは、毎朝学校へ行く前に家族と共に船に乗り漁に出かけます。家業である漁業において高校生のルビーが果たす役割はあまりに大きく、漁の途中で異変が起きたり警報が入ったりしないか注意を払い、家族と漁業組合の人々との会話を通訳を行い、兄がろう者(Deaf)であることから軽んじられ買取業者に不当な価格を突きつけられれば、間に入って強気の交渉にも出ます。しかし、聴者である妹が介入したことで自尊心を傷つけられた兄からは「出しゃばるな」と不平を言われたりもします。
ルビーの生活は、ろう者(Deaf)の家族を中心に動いていて、家族の事情に振り回され続けているのです。そこには愛もあれば、家族として強制的に背負わされた責任もあります。作中で描かれるロッシ家のろう者(Deaf)たちは、荒々しい喧嘩もするし、激しい性行為もするし、”重低音が響くから”という理由でカーステレオから大音量でヒップホップをかけたりもします。聴者/ろう者の域を超えて、ロッシ家の人々は一風変わっているのです。『CODA』で描かれるろう者の世界には、所謂、柔和で聖人的な意味での”福祉っぽさ”は存在しません。俗っぽい下品な言葉だって、手話で表現することができます。生々しい怒りや、溢れる愛情も、口で話すこと以上に大きな身振りの手話で表現されます。
ロッシ家において、ルビーは聴者として対外的には”強者”としての役割を担いながら、家庭内においては”弱者”(圧倒的マイノリティ)として存在してます。家族の会話や生活は、ろう者(Deaf)が中心です。ルビーの好きな「音楽」は「家族で楽しめないもの」として軽視されます。また、前述したようにロッシ家の人々は、ティーンの娘が最低限、家族に期待するようなデリカシーを驚くほどに持ち合わせておらず、そのことが、ルビーを苛立たせます。『CODA』がルビーを軸に描き出すのは、現状の社会がたまたま聴者を中心にまわっているだけであって、ろう者を中心に置いた世界において、聴者はマイノリティになりうるという世界観です。
しかも、聴者のルビーは、家族の外の世界、学校においては聴者の世界の中で生きているかというと、そこにも彼女の居場所はありません。校内(=社会)においては、CODAの子として、マイノリティのスティグマを押し付けられているのです。ルビーは、社会において何重にも孤独な存在のように思えます。しかし、そこには哀れみを誘う不遇のヒロイン的な要素はありません。ルビーはみじめさを滲ませることなく淡々とそれを引き受けているのです。孤高さやプライドすら感じさせます。音楽の授業で互いにデュエット相手に選ばれたことをきっかけに、ルビーと親交を深めていく青年マイルズは、ロッシ家の人々の在りように当初は面食らいつつも、「幼い頃に、ルビーがレストランで家族の分の注文をとりまとめ通訳として伝えている姿を見て格好いいと思った。」と言って彼女が家族の中で果たしてきた役割にリスペクトを払います。
ルビーは、自身が希望して受けた合唱の授業をきっかけに、歌うことと自分の中の才能に出会います。音楽教師のV先生やマイルズとの交流を通して、次第に自身の進路について考えるようになります。V先生からは音大進学をすすめられますが、ヤングケアラーとして生きてきたルビーにとってそれは想像もしなかったことでした。学費の工面、労働力・通訳としての役割、しかも「音大」はろう者の家族には伝わらない「音楽」の道…ハードルがあまりにも多過ぎるのです。ルビーはろう者(Deaf)の家族と共にあり、家族にとって欠かせない存在であり、自分のための人生を選ぶことなど、到底できないと思っていたのです。
以上が、『CODA』のあらすじですが、私はこの映画を見て思い出した作品と体験があります。
ひとつは『静かで、にぎやかな世界~手話で生きるこどもたち~』(2018年5月26日 ETV放送)というドキュメンタリー作品です。私は、この作品を丹羽先生の授業で知りました。日本で唯一の「手話で学ぶ学校」明晴学園を舞台に、子供たちの明るく賑やかな手話のおしゃべりを映し出します。作品は全編音声なし、字幕で進行し、視聴者はろう者の手話の世界に没入するような体験をします。そこには、「”聞こえない”=困難を抱えている弱者」というマジョリティからの傲慢な視点をくるりとひっくり返してしまうような、きらめきがありました。明晴学園の中には、豊かな手話の世界が成立しているのです。生徒も先生も表情豊かに、存分に手を動かして話す様子に、目が離せなくなります。声を使って人と話す私たちは、普段こんなに存分に言葉を表現したり、コミュニケーションを取れているだろうか、と思わされます。そこには、聴力が「欠けて」いるのではなく、「にぎやかなろう者の世界」が存在しています。生徒たちはろう者の世界に誇りを持ち、アイデンティティとしてポジティブにとらえ、明晴学園を卒業して社会に漕ぎ出そうとしていました。
『静かで、にぎやかな世界』で描かれた、ろう者中心の世界の豊かさに対して、『CODA』では、ろう者(Deaf)であるロッシ家の人々が、聴者中心の世界で生活する上での葛藤が描かれます。ストーリーの中で、ろう者(Deaf)を一方的にマジョリティの価値観から弱者の立場に押し込めることに、疑問を投げかけるような場面があります。しかし、作品の後半では、漁業組合において、マイノリティであるロッシ家が中心になり、新たなムーブメントを立ち上げます。漁場の空気も次第に変化していきロッシ家の人々はコミュニティの中で大きな役割を果たしながら、聴者の世界とろう者(Deaf)の世界は少しずつ混じり合ってゆきます。ラストで、漁港の人々がコミュニケーションに手話を用い始めるシーンには共生の光を感じさせました。
もうひとつ、私が映画を見て思い出したのが、今年4月に体験した『ダイアログ・イン・ザ・ダーク』というアクティビティです。アトレ竹芝内の施設で行われている催しで、真っ暗な空間を、視覚障害者の方のアテンドのもと、白杖を携えて歩きながらさまざまな体験をします。暗闇の中に足を踏み入れると、そこでは外の世界でのマイノリティとマジョリティが逆転します。暗闇の世界は彼女たちが生きている世界であり、普段視覚に頼って生活している私たちには全く不慣れな環境です。暗闇の中階段を降りるなど到底できないと思いつつ、自分が今どの方向に進んでいるかも分からない中で、それでも足を踏み出すことしかできません。だからこそ、ガイドの誘導を頼りに、その日初めて出会った参加者たちで声を掛け合い、手で触れ合い、白状をぶつけ合いながら暗闇を歩く体験には温もりがありました。60分ほどの体験を終えて、外の世界に出た時、ガイドの方が、自分が座る椅子の位置を確かめている時に、おそらく彼女が見ている景色と近い状況が自分の中に身体知として想起されることに、不思議な感覚を覚えます。
マイノリティは常に”弱い”存在なのではなく、誰を中心にした環境かによって変化しうるものでもあります。互いの弱さを知り、リスペクトを払いながら、異なる世界の中に生きる他者と、同じ世界を共有することに想いを馳せました。それは所謂「障害」として認識されているものだけでなく、より広い意味でも捉えられることだと思いました。
『CODA』の作中で用いられる『You’re All I Need To Get By』はルビーと同級生の青年マイルズがデュエットをするために与えられた課題曲です。ルビーにとってのマイルズはそれまで距離を持ってきた聴者の世界、家族の外の世界を生きる人であるし、マイルズにとってのルビーはCODAの世界を生きる異質な存在でもあります。
ルビーとマイルズは合唱の練習で背中合わせに互いの気配を感じながら、声と音楽を合わせることを通じて世界を重ね合わせてゆきます。歌詞の中の「With my arms open wide I threw away pride」という一節を私はとても美しいと思いました。
全く違う世界を生きる他者とも、想像力をふくらませることで、世界を重ねていくことができるのではないかと思います。映画、ドキュメンタリー、アクティビティを通して、他者の世界を、想いを、感じることの豊かさについて考えました。