ルーズアダプテーションとは

みんなさん、こんにちは。今回のフィールドレビューはM2のジェレンが担当させていただきます。今学期になってから、中間発表や授業などの発表を通じて様々な分野の人に自分の研究発表をする機会があって、特に「ルーズアダプテーション」についての質問を多く頂きました。そのため、今回は「ルーズアダプテーション」について書きたいと思いました。

ルーズアダプテーション(Loose Adaptation)は日本語訳のない言葉であるため、調べると「翻案映画」や「〜を基盤とする映画」などのような説明の仕方がよく見かけます。直訳するとルーズアダプテーションは「つながりの弱い映画化」のような少し分かりにくい内容になりますが、簡単に説明すると文学作品などを映画化する時にオリジナルである作品とのつながりが弱いということを意味しています。

元となる作品を誰でも体験できることからして、映画化された作品は批判されやすくなります。それは、比較できる対象が目の前にあり、例えば小説などの場合は作品を読んで想像する人が多く、自分の想像したものと画面に映った他人の想像と一致しないことが多いからです。それ以外にも、もちろん、文字と映像の表現の違いによってなくなってしまう部分があり、受け入れにくいということもあります。実際、映画化研究においてこの批判は重要な課題でもあります。しかし、今回扱うルーズアダプテーションはそもそも「オリジナル作品に沿いません」宣言を最初からしている作品です。では、ルーズアダプテーションは何が面白いのでしょうか。

去年、再び映画化されたアメリカの小説『The Great Gatsby』(1925)は、私が10年間にわたり関わった作品で、8年間文学作品として関わった後、卒業論文ではこの作品の映画へのアダプテーションを扱いました。その映画の名前は『G.』(2005)です。

ギャツビーの映画化の研究は基本的に74年のレッドフォード主演のギャツビーを扱っていて、議論は忠実度になることが多いです。それ以外でも、アダプテーション研究といえば芸術的な面や表現に関する研究とともに、いつも語られるのは忠実度についてです。しかし、このような黒人のギャツビーを扱う映画となると、文学作品と同時に語られることがほぼないともいえます。では、このギャツビーには何ができるのでしょうか?なぜ、このように名前が知られる純文学作品のルーズアダプテーションは重要なのでしょうか?

ギャツビーといえば、狂騒の20年代のアメリカンドリームの形の表象です。ジャズ・エイジの娯楽の時代のアメリカンドリームを理解するにはさけられない作品です。では、2000年代の流行の中におけるこのアメリカンドリームはどう変わっているのでしょうか?この質問の答えは、忠実度の高い映画化では表現できるのでしょうか?また、例えば、20年代の白人の文化は表現できたとして、その他の人々はこの作品を手にして、何を自分のアメリカンドリームとして理解しているのでしょうか?

これらの点を現代風にアレンジできるのは、ルーズアダプテーションであります。つまり、ルーズアダプテーションとは異なる時代だけでなく、異文化、異人種など、常に変わる毎日に過去を適応させることをいうのです。