映画館のオーラル・ヒストリー

今回のフィールドレビューは、修士課程の山中が担当します。東急三軒茶屋駅から世田谷通りを徒歩5分、大きな薬局とスーパーに挟まれた狭い路地を左に折れると、左手に「三軒茶屋シネマ」のネオンサインがあります。このまちで約60年もの間人々に親しまれてきた名画座「三軒茶屋シネマ」が、7月20日にその歴史に幕を下ろすことになりました。

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閉館を間近に控えた三軒茶屋シネマで先日、イタリア映画の傑作『ニュー・シネマ・パラダイス』(1988年イタリア公開)を鑑賞しました。物語はローマで成功した初老の主人公が、故郷シチリアの村の小さな映画館「ニュー・シネマ・パラダイス」で、映写技師として働いた少年~青年時代を回想するというもの。映画のラスト、廃墟になった映画館が解体のため爆破され崩れ去るシーンでは、三軒茶屋シネマの境遇と映画がオーバーラップして、つい涙してしまいました。

近年になって、都内の名画座が相次いで閉館しています。昨年は銀座シネパトス、三軒茶屋中央劇場、一昨年は浅草中映、浅草名画座などが閉館していました。今年は7月の三軒茶屋シネマをはじめ、8月には新橋文化と新橋ロマンが閉館するとのこと。

三軒茶屋シネマは、閉館の理由を「設備の老朽化、近年の市況の厳しさ等、諸般の状況から長期的な展望の見通しが立た」ないことだとホームページで伝えています。名画座の相次ぐ閉館の背景には、このような建物の老朽化、デジタル化が進む上映機器の対応への難しさ、シネコンとの競争や映画の個人消費増による集客率の低下などがありそうです。

「こんなに歴史があって、人々から愛されてきた映画館を閉館にしてしまうなんて」と、センチメンタルな気持ちになるのは当然でしょう。しかし三軒茶屋シネマに足を運んでみると、ネオンサインの電球はところどころ割れ、天井には雨漏りの跡があり、椅子はお世辞にも座り心地の良いものではない。シネコンと比べてみても、あるいは単純に防災上の観点から考えても、このまま営業を続けることは現実的ではないだろうな、と私は感じました。

時代の流れのなかで失われてゆく場所に対し、いたずらにセンチメンタルになるのではなく、どうしたら「記憶」を残していけるのか、考えるのもひとつの方法だと私は考えます。

イギリスの歴史学者ポール・トンプソンは、歴史学にインタビューの方法を持ち込み、「オーラル・ヒストリーの父」と呼ばれました。それまで文献資料や統計データに対して、主観的でとるに足らないものとされてきた口述の資料を、歴史を記述する際の重要な素材とみなしたのです。なぜならば、政治における政策の決定プロセスや、女性や労働者、エスニックマイノリティといった人々の歴史は文書で残されていないことが多く、そうしたいまだ書かれていない歴史を記述するためには、当事者への記憶をもとに歴史を構成していくことが必要だったためです。

映画館の話に戻ります。映画の歴史というと、これまでは作品の歴史や監督の歴史が主でした。それが最近になって、映画研究者の加藤幹郎が『映画館と観客の文化史』において、映画を上映する場や観客に焦点を当てた歴史をまとめています。しかし映画を上映する人間からみた映画史も、映画研究の文脈で、また映画館の記憶を歴史にとどめておくという意味でも、重要なのではないでしょうか。

「フィルムが上映中に切れてしまったとき、再開までのあいだに観客の皆さんが歌いだしたことがあった」

「かつて旧型の移動映写機を使っていた時は、20分に一度手作業でフィルムを交換する必要があったため、映写技師は映写室を離れられない。一日8時間も閉じこもっていた」

「映写室から、自分が上映している映画で観客が泣いたり笑ったりしているのを見下ろすと、自分が彼や彼女らを感動させているように思える」

私が映写技師の方から聞いたこのようなエピソードを集めて、口述による映画館史をまとめてみる。『ニュー・シネマ・パラダイス』が映写技師を主人公にした映画だったように、送り手側からみた歴史を記述することは、実践的にも、学術的にも意義があるのでは、と考えています。