博士課程の田中です。今年度も、在留外国人の方々の映像記録に関わらせていただく機会がありました。当事者の声やその確かな存在が、社会の中で見えるものになるように、そんな想いでこの数年間取り組んできました。
その過程で、ふと立ち止まって振り返る瞬間があります。自分自身もまた、比較的長く「外国人」として生きてきたのではないか、と。
1年5班55号

最初の経験は、父の仕事の都合で、家族とともに中国・大連市で暮らしたことでした。私は幼稚園から小学校まで、現地の教育機関に通いました。授業中の先生のお話や教科書の文がわからないのはもちろんのこと、同級生が話しかけてくれる声も、売店に並ぶ飲食物の包装も、街角の看板も、世界は意味を結ばない記号や音であふれていました。私が小学校で最初に覚えたことばは「1年5班55号」(出席番号)でした。ただ一人の外国人児童に付された学年で一番最後の番号、毎朝の点呼に応えるために必要なことばでした。
担任の先生は、いまで言う「取り出し指導」のかたちで私を職員室に呼び、根気強く読み書きを教えてくださいました。冬の補習のあいだ、石炭ストーブの上に置かれたやかんがシュッシュッと音を立てていたことを、今も鮮明に覚えています。やがて、先生方や同級生のおかげでことばが少しずつ意味を持ちはじめ、授業にもついてゆけるようになりました。当時、学業優秀児童がつけるリボンがあったのですが、晴れてリボンをつけられる日が訪れた時は、胸を弾ませながら家まで走って帰ったことを思い出します。
外国につながる子ども・留学生・研修生
帰国後の私は、日本の公立小学校に編入しました。いわゆる「外国につながる子ども」です。頭の中では中国語と日本語がせわしなく入れ替わり、日本語が思うように出てきません。初日に戸惑ったことばを、今も覚えています。「かっぽうぎ」「ナプキン」。給食の時間に使う前掛けや、食器の下に敷く布のことだと理解するまで、少し時間がかかりました。わからないことを尋ねる、その一歩の勇気がなかなか難しく、なんとなくやり過ごす心細さと緊張感がありました。ことばが通じないというのは、単なる不便というよりも、世界とのあいだに、薄い膜が一枚かかっているような感覚でした。
その後、スロベニア、フランス、アイルランドなどで、実習や留学、研修の機会を得ましたが、どの国でも、私は紛れもない「外国人」でした。大人になると、学ぶことだけでは暮らしていけず、在留手続きや、移動手段となる車の登録、体調を崩した際の通院など、生活の細部にまでことばと制度が関わってきます。日常のあらゆる場面で、それらと向き合う日々でした。
振り返れば、人生の少なくない時間を、どこかの国で「外国人」として過ごしてきたことになります。不便や困難を覚えることもありましたが、その土地ならではの文化や人との出会いに心を動かされ、胸を躍らせる瞬間もまた、確かにありました。また、「外国人」であることの意味は決して一つではないことへの気付きも得ました。同じ一人の人間であっても、時々の状況や環境、出会う人々、起こる出来事によって、その意味合いは揺れ動きます。異質な他者として生きる中で立ち上がる出来事の多様さと重層性が、心に残る感触として今も確かに存在します。
糾える縄
こうした記憶がよみがえったもう一つのきっかけは、現在取り組んでいる「テレビと外国人」をテーマとした番組調査です。外国人のテレビ表象をめぐる考察を進める中で、丹羽先生にご助言いただき、取材対象として描かれる外国人当事者だけでなく、番組を制作する側の「当事者」にも目を向けるようになりました。すると、私が強く惹かれてきた番組の多くにおいて、制作者自身が外国につながる事情を持っていたり、幼少期や学生時代、仕事上の経験を通して深い接点を持っていたりすることが見えてきました。
ある対象やテーマと向き合う理由は、偶然のようでいて、どこか必然にも思えます。そうした縁や記憶は、番組の表現やコンセプトの端々に、静かににじみ出ます。人が人と向き合い記録しようとする時、その相互行為の背後には、それぞれの経験や感情が糾える縄のように織り込まれていることを痛感します。テレビをめぐる当事者たちの来歴や想いにまで視野を広げてみると、そこには、単なる番組の良し悪しや言説の妥当性を超えた、もう一つの地平が立ち現れてくることを実感するのです。
テレビは、取材から制作、放送に至るまで、実に多くの人と手続きが関わるメディアです。その非効率性ゆえに「オールドメディア」と呼ばれることもあります。それでもなお、その複雑で手間のかかる過程のなかにこそ、社会で見過ごされた人々を見出し、かき消されがちな声に耳を傾け、その姿を描き出す契機が宿っているのではないかと思うのです。私がテレビというメディアに惹かれ続けている理由の一つも、そこにあります。そして同時に、「外国人」という存在をめぐる物語を、これからも見つめ続けたいと感じています。そこには、かつて「1年5班55号」だった私がどこかにいるような気がしてならないのです。