テレビに語られる「女の野心」

今回のフィールドレビューは、博士課程の王が担当いたします。現在の中国若者層に「職場のバイブル」として扱われているテレビドラマ『甄嬛伝』(2012)が、2013年に『宮廷の諍い女』という名で、BSフジにて放映されました。

中国版の『大奥』(2003)として位置づけられた『宮廷の諍い女』は、『大奥』と同じく、一見すると、確かに大業を成し遂げた偉い女性主人公が描かれ、世の中の女性たちの活躍を励まそうとするストーリーのようにみえます。しかし実際には、女性主人公が眼差され、截断されているのではないかと考えます。二つのドラマともに、女性主人公らは、自らの「何かを成し遂げたい」という「野心」が隠蔽され、男に対する「愛」が理由として闘い合うという構図になっているからです。

二つのドラマともに、女性主人公の「男に対する愛」に左右される人生を前景化させています。『大奥』では、篤姫と滝山、和宮と実成院が自ら愛する将軍たちのために相互に対峙します。そして、将軍らが亡くなってからは、彼女らは仲直りをしつつ、相手に対する怨みを捨てるようになります。幕府の大奥ひいては朝堂における権力を手に入れたことは、ただ彼女らが一生をかけて将軍に対する愛を実践する過程の副産物だと言っても過言ではありません。

また『宮廷の諍い女』では、雍正帝の愛をすでに手に入れたと思った甄嬛は、自分が皇帝の亡くなった元妻の代替品という事実を発見した後、落飾しました。その後、寺院で皇帝の御弟果郡王と恋に落ち、彼の戦死の噂を信じた後、再び宮廷に戻り、最終的には聖母皇太后になりました。皇帝と果郡王の「愛」を諦めずに追求しつつ、他の妃嬪と愛と権力をめぐる諍いを行った甄嬛。彼女は皇太后になりましたが、同時に、至愛の人を亡くすという永遠の孤独にも陥りました(脚本者による)。

しかし、このような男に対する「愛」がすべての動機として強調されるストーリーには、もう一つの語り方が潜在しています。『大奥』では、家定の死んだ後の騒ぎの中で、幼なじみの克顕が現れ、篤子を大奥から連れて行こうとしますが、篤子がはっきり断りました。「私は望んでここに残るのです。自分で自分の生きる道を照らすために残るのです」。類似なのは、『宮廷の諍い女』では、甄嬛が寺院から宮廷へ回帰することを決意した際、果郡王の駆け落ちの誘いに対し、「世の中に『情』という一文字しかないわけでもない」と拒否し、復讐を目指す権力闘争に戻りました。

このように、女性主人公は自らの「何かを成し遂げたい」という要望で、男の情を受けずに大奥・後宮に残ることを決意するという展開が、「男の愛」を追求するという設定に包括され、隠蔽されています。こうした、「女の野心」を直接に出さずに、「男の愛」を追求するため奮闘する主人公のイメージは、実際には「男の愛」を受けないというアンビバレンスの要素にも構成されているとわかります。

すなわち、天璋院篤姫と鈕祜禄氏孝聖憲皇后のような歴史上にも有名な政治人物を描く場合、彼女らの自らの「野心」がそもそも避けがたい存在とも言えます。では、なぜ女性主人公の「野心」が直接に言及されないのでしょうか。また、なぜ彼女らの生い立ちを劇化する現代テレビドラマでは、一概に「男の愛を追求する」イメージが彼女らに押し付けられているのでしょうか。

アメリカのGeorge Gerbnerの培養理論(Cultivation Theory、1986)によれば、どこの家庭でもいつでも見ることができるテレビは「視聴者の視聴強度により、テレビ番組が持つ価値と視点を、視聴者の現実認識や価値観として長期的に培養する」と言っています。この理論は、テレビが社会の中に既に存在している態度や価値観に基づいて、異なる形でそれを視聴者へ再び伝達することを強調しています。すなわち、テレビ或いはメディアは、現状を変革するわけではなく、現状を培養するだけです。このように、培養理論に従うと、現実の社会では女性の「何かを成し遂げたい」という「野心」がいつも「異性の愛を追求する」というイメージに包み隠されていると推測できます。

二つのドラマの設定と類似する現代社会の職場恋愛の場合を例とすると、目上の男性先輩と付き合っている女性主人公は、悪口や噂を流したり、孤立させたりしたことにより、同じ職場の同性を蹴落としようとしていることに対し、「大好きな彼氏を奪われたくない!」、「恋のライバルを撃退したい気持ちがよくわかる!」などといったたくさんの「理解できる」声が寄せやすいかもしれません。しかし、「先輩と付き合っている」ことと「職場の同性を蹴落とす」こととは、必ずしも因果関係があるでしょうか。つまり、恋のライバルという名目で、キャリアのライバルとしての職場の同性を蹴落とすこと、ひいては先輩と付き合うことを通して、職場におけるポジションを固め、高めようとするのが女性主人公の真の「成し遂げたい」ことである可能性が見逃されてはいないでしょうか。

ところが、分析対象選択基準、概念の定義方法などといった限界による培養理論の欠陥と同じく、このようなイメージが本当にすべてのテレビ番組上で放映されているのか、社会全体の意志を代表できるのか、まだ疑問です。かつて日中両国で大人気だった『花の子ルンルン』(1979)では、主人公「花の子」が、自らの幸せを成就させることができる七色の花を探索するのを唯一の「成し遂げたい」こととして貫かれます。花探しの旅を通して、主人公は七色の花だけでなく、フラワーヌ星の新国王の愛も収穫してしまいます。「異性の愛」がただ野心を実現させるため、頑張っている途中に手に入れるものとして描かれる『花の子ルンルン』における「花の子」のイメージ。現在のテレビに語られる「女の野心」というイメージ。両者のギャップを通して、この30年間におけるテレビでの語られ方の変遷がすこしは窺えるのではないでしょうか。