「物語」なきラスボス

はじめまして、丹羽研究室修士1年の小玉です。今回のフィールドレビューを担当させていただきます。

この半年、コロナ禍による外出自粛で動画配信サービスの新規加入が増加しているといいます。ただ、多くの消費者がそうしたサービスを利用して過去作品に親しむ一方、制作者側は外出自粛を受け、撮影の中断を余儀なくされました。

しかし、リモートスタイルの撮影やマスク着用でリハーサルを行うなど様々な対応のもと、制作活動は徐々に開始されていきました。新しいコンテンツが、なんとか今も途絶えることなく生み出されています。

TBSドラマ『MIU404』もまた、撮影が中断され、放送が延期されたものの、先月4日、話数短縮をもって無事、最終回を迎えました。このドラマは、脚本に野木亜紀子、プロデューサーに新井順子、演出に塚原あゆ子、と『アンナチュラル』(2018年1月放送)チームで制作されました。前作が高い評価を集めていただけに、今回のドラマも注目されます。

みなさんは『MIU404』をご覧になりましたか。少し、概要を書きます。主人公、伊吹藍(いぶき・あい)と志摩一未(しま・かずみ)は、警視庁の働き方改革のもと導入された「警視庁刑事部・第4機動捜査隊(Mobile Investigate Unit)」の第4機捜に所属しており、2人は「相棒」として、数々の事件にともに挑んでいきます。「404」は2人を指すコールサインです。このドラマは基本的に一話完結型ですが、第3話から登場し、のちに過去の未解決事件の首謀者とされる青年、久住(くずみ)をラスボスとしてストーリーは展開されていきます。一話一話に現実の社会問題に対するメッセージがあり、また、伊吹と志摩の上司、桔梗(ききょう)隊長をはじめとする女性キャラ達の抱える困難が巧みに描かれます。『アンナチュラル』と同様、ドラマで描かれる話が現実と地続きであることを視聴者につきつけるようでした。

私が衝撃を受けたのは最終回です。ラスボスの久住は、ここまで一切の過去が描かれず、ひたすらクレイジーに犯罪を繰り返す得体の知れない存在でした。最終回で伊吹と志摩に逮捕されても、ついにその素性が明らかにされることはありませんでした。志摩にどこで育ったのかときかれた久住は、深く息をついてこう答えます。

「何がいい?不幸な生い立ち、歪んだ幼少期の思い出、いじめられた過去、ん?どれがいい?俺は…お前たちの物語にはならない」

私は文字通り、息を飲みました。久住は、彼の「物語」を私たちに教えてくれないのです。
「物語」は両義性を伴います。社会学者の井上俊は「自分の経験を秩序立て意味づけるのに物語の力を借りている」と言いました(井上 1997: 42)。戦争、災害、不況、理不尽な出来事など、私たちは生きている中で、しばしば「自分の経験を秩序立て意味づける」ことが困難な状況に陥ることがあります。このとき、社会の中である種共有された「物語」の形式を通して自分の経験に「意味」を見出します。そうすることで私たちは安心できるのです。そして、他者にも「物語」という形式をもって「意味」を付与し、円滑なコミュニケーションへとつなげていきます。

しかし、井上も指摘しているようにメディアが「物語」の秩序構成力を利用する可能性があります。それは、ときに他者にとって不利益な「意味」を付与する「物語」となります。そして大抵、私利私欲のために、あるいは無自覚に、マジョリティや特権層の安心できる「物語」が作られ、マイノリティや社会的弱者が不利益を被る危険性があるのです。ドラマも例外ではありません。

「お前たちの物語にはならない」。これは久住が、そして久住を犯罪へといたらしめた人や物、各々が不利益を被らないための制作陣による挑戦ではないでしょうか。

当時Twitterで、久住の服装があのバットマンの宿敵、ジョーカーを彷彿させるという指摘がありました。ヒース・レジャー演じるジョーカーは絶対的な悪です。しかし、近年公開された映画『JOKER』(2019年10月公開)ではどうでしょう。ホアキン・フェニックス演じるジョーカーは、不平等社会に苦しみ、母親からの暴力を受けてサイコパス化した、みんなが共感し、納得し、そして安心する「物語」の末に誕生したかわいそうな悪者です。評論家の宇野常寛は、前者のジョーカーが「世界に存在し始めているが、まだ姿を現さない不気味なものを創作物のかたちで可視化したもの」で、後者のジョーカーは「既に世界に存在しているものの確認だ」と表現します(宇野 2020: 231)。また、母親からの虐待や離婚による母親との別れなど、悪の原因に母親を求める「物語」はフィクション界の常習手段のように感じられます。宇野の言葉を借りれば、これは「母の膝の上で父になる夢を見る」ことではないでしょうか。

さて、久住はどうでしょう。絶対的な悪、得体の知れない存在のままで、ヒースのジョーカーのそれと同じです。脚本の野木自身も、久住は「”既に存在するかもしれない脅威”として描いた」とインタビューで語っています。え、久住って何者??何人もの視聴者が身悶えしたことでしょう。久住の服装にジョーカーの影を落としたのが本当なのだとすれば、あるいはそうでなくとも、そこに、「物語」を作って安心なんかさせてやらねぇぞ、という制作側の強い主張があるように思えます。

実はこのラスボスの背景描写を拒否する展開ですが、『アンナチュラル』でも同様の展開がありました。『アンナチュラル』のラスボスは、主人公の同僚の彼女を殺害した連続殺人犯の高瀬(たかせ)という不動産屋です。最終回の裁判のシーンで検事が、高瀬は母親から虐待を受けていたとし、「被告人(高瀬)は自分が受けた虐待と同じことを被害者に行い、殺害することで、亡き母親への恨みをはらそうとした」と説明します。しかし、主人公のミコトは解剖医としてこう言います。

「そこ(鑑定書)には犯人の感情や気持ちなんて書かれていません。ご遺体を前にしてあるのは、ただ、命をうばったという取り返しのつかない事実だけです。犯人の気持ちなんてわかりはしないし、あなた(高瀬)のことを理解する必要なんてない。不幸な生い立ちなんて興味はないし、動機だってどうだっていい」

脚本の野木亜紀子は『アンナチュラル』に関するインタビューで、こだわっていたのは、加害者の気持ちを描かないことだと話しました。

『アンナチュラル』ではラスボスに「物語」がありましたが、それを主人公が拒否することで、みんなが安心する「物語」回帰にならない道を示しました。そして『MIU404』では、ラスボス自らが「物語」を明かさないことで、徹底した「物語」回帰の拒否を成立させました。井上は、ありきたりの「起源」や「主体」の「物語」に回帰せずに「物語」そのものを検討することの難しさを指摘します(井上 1997: 44)。『アンナチュラル』、そして『MIU404』はそこを追求した挑戦的な作品だったと考えることはできないでしょうか。

ところで、伊吹と志摩が愛用していたパトカーはメロパンのキャラバンです。なんだか久しぶりにメロンパンが食べたくなってきました。

参考文献

井上俊(1997)「動機と物語」井上俊ほか編『岩波講座現代社会学1 現代社会の社会学』岩波書店。
宇野常寛(2017)『母性のディストピア』集英社。
宇野常寛(2020)『遅いインターネット』幻冬舎。