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漫画・アニメーション創成期

作者: Suzuki Maki | 2012年11月27日Posted in: フィールドレビュー

こんにちは、今回のフィールドレビューは、修士課程1年の鈴木が担当させていただきます。私はいま、戦前期の漫画やアニメーション資料を調査しています。現在、特に見ているのは、『漫画』や『大阪パック』という雑誌に掲載された漫画や、『日本アニメクラシックコレクション』に収録されているアニメーションですが、今回はその中から面白かったものをいくつかピックアップして紹介させていただきたいと思います。

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まず、『日本クラシックアニメコレクション』の第1巻に収録されている「大力太郎の無茶修行」(キングフィルム、1928年)ですが、これは、大力太郎がクマを手下に、天狗や鬼をその怪力でもって退治するという、1分半程度のアニメーションです。タイトルから現在の「力太郎」という昔話の亜流だと考えられますが、クマを手下にする点などは「金太郎」とも共通点があります。

このような1920年代のアニメーションは、製作体制の限界(集団ではなく個人製作、セル画という技術がないなど)から、奥行きのない平面的な構図を持ち、同じ動きが繰り返されたり、同じ顔を持つキャラクターが複数登場するなど、単純な表現が多く見られます。

しかし時代が下り、1940年に製作された「カンガルーの誕生日」(『日本クラシックアニメコレクション』第4巻、日本映画科学研究所、1940年)というアニメーションを見ると、画面に奥行きが見られるようになります。またそれと比例するように、キャラクターの表現にも深みが見られるようになります。例えば、このアニメにはカンガルーの兄弟が5匹登場しますが、一匹ごとの大きさや服・性別が異なり、区別されています。また攻撃を受けて、真っ当な肉体的痛みを訴えるようになるのも、1920年代のアニメーションとの大きな違いと言えるでしょう。

一方で『漫画』などの情報雑誌に掲載された一コマ漫画は、こうしたストーリー性を明確に意識したアニメーションやストーリー漫画とは異なる分野にあります。後者は幼い子供が楽しめるように設計されていたのに対し、一コマ漫画は背後にある文脈の理解など、髙いリテラシーが求められます。内容も政治や社会の世相を描くものがほとんどで、「何が面白いのか」を作者と読者で共有するためには、当時の社会情勢についての深い知識が必要であると言えるでしょう。

さて、この両者に共通しているのが、海外の同ジャンルへの大きな関心です。アニメーションは主にアメリカで発展し、戦前にミッキーマウスやポパイ、ベティブープなどの人気キャラクターを生み出していきます。これらはセルロイド法を使用したトーキーアニメーションでした。日本のものよりもはるかに動きが滑らかで、音楽も入り、日本をはじめとする世界各国に輸出され人気を博していきます。アメリカアニメーションの爆発的人気を目の前にして、当時の日本アニメーション作家はそれらを強烈に意識していたことでしょう。中野孝夫の「黒猫萬歳」(1933年)には、ミッキーマウスのクローンが敵航空部隊として登場します(セバスチャン・ロファ『アニメとプロパガンダ』2011年、p.24)。

また漫画家も欧米の漫画を注意深く読んでいました。近藤日出造や横山隆一などの漫画家が結成した新漫画派集団は、アメリカの漫画に影響を受け、従来の伝統的なスタイルから、登場人物の対話ではなく、ギャグを多く含むナンセンス漫画を新たに確立しました。さらに、『大阪パック』という雑誌には外国漫画を紹介するコーナーが定期的に設けられ、外国漫画への注目の高さがうかがえます。田河水泡の「のらくろ」は、『時事漫画』に連載されていた米漫画「Felix the Cat」から編集者がヒントを得て、動物を主人公にした漫画を作者に提案したことが連載のきっかけだとする説もあります(清水勲『漫画の歴史』1991年、p.136)。

このように、当時のアニメや漫画においては、著作権というものに縛られない、自由な創作活動が繰り広げられてきたことがわかります。ストーリー面では民話や外国漫画(動画)などからかなり自由な翻案が行われ、その中で人気を集めた物語構造に収斂していったのだと思われます。また、技術面においても、外国漫画(動画)や映画などの他ジャンルを研究し流用が行われていきました。

よく、漫画が発展したのは戦後、特に手塚治虫以降だと言われます。ですが、戦前においても自由で活発な創作が行われていたと思いませんか?ストーリー漫画やテレビアニメの産業的発展において、手塚治虫がもたらした影響力に異論を唱えるつもりはないのですが(私も小学生のころに手塚治虫の作品はほとんど読みました!漫画を読む習慣がなくても、一度は目や耳にする作品も多いと思います)、戦前の創作活動を置き去りにしてそれらを語ることには抵抗があります。更に、現在では研究も進み、戦前と戦後のスタイルの連続性を指摘する論も増えています。

それでは、そうした創作が行われていたのにも関わらず、なぜ漫画の発展は手塚治虫の登場を待たねばならなかったのでしょうか?それはこうした創作が閉じたものであったからだ、というのが一つの理由として挙げられると思います。主なターゲットが子供であり、それ以外の層に訴求力がなかった。下らないものだ、とすら思われていた。実際、欧米では現在も「アニメは子供向けのものであるべきだ」という通念があると言われます。

戦前の日本において、「漫画は子供の読物である」という社会通念はより強力なものであったと考えられます。そうした社会通念に、漫画家は如何に対抗していったのか。それを今後も考えていきたいと思っています。