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鰻の考現学

作者: Watanabe Chihiro | 2018年6月28日Posted in: フィールドレビュー

みなさん、こんにちは。修士課程の渡辺です。今回は、僕が大好きな鰻のことについて、少し書いてみたいと思います。

正直なところ、自分でもここまで鰻が好きになるとは子どものころ、想像していなかったのですが、何気なくスマートフォンのアルバムを確認してみると、そこにはおびただしい数の「鰻写真」が......。普段、食べたものの写真を撮影したり、どこかでお披露目したりすることはまず無いのですが、これだけの数を目の当たりにすると、そこには何か自分という人間の本質が眠っているのではないか、あるいは僕個人の問題ではなく、背景に何か大きな社会的要因が存在するのではないか......。つい、そんな風に考えてしまいます。鰻が好きな人も、嫌いな人も少しだけお付きあい頂ければ幸いです。

今年(2018年)、日本国内では鰻の漁獲量不足が深刻だといいます。1月ごろに稚魚の不足が深刻だと言われ、土用の丑の日がいよいよ間近に迫ったこの時期、どこの鰻屋さんでも店主の悲鳴が聞こえてくるかのような値上げにつぐ値上げを目にします。

しかし、僕みたいに「鰻が好きで好きでたまらない!」という一部の奇特な方を除いて、恐らくみなさんが鰻の値上がりをそれほど深刻に感じる機会はないでしょう。鰻は、何か特別な時や大きな仕事を終えたとき、あるいはこれから山場を迎える仕事に臨むとき、気持ちを盛り上げるために食べる、そんなことがほとんどではないでしょうか。あるいは、だれかがご馳走をしてくれる、というときにもしばしば手軽に選ばれるメニューだと思います。

希少価値があり、ご馳走や景気づけのメニューとされ、果ては滋養強壮にも効くという説もある......。これだけでも、鰻が沢山の文化的な意味を与えられていることに嫌というほど思い至ります。

鰻と文化、ということで言うともう一つ、異なる地方の出身者が集まったときにしばしば話題になるのが鰻の「食べ方」だと思います。関東風と関西風(腹開きか背開きか、に加えて、蒸す工程の有無が関係するそうです)、中間地点の名古屋ではひつまぶしというメニューが存在し、九州にいけばせいろ蒸しされた鰻が出てくる......。どれが美味しいと感じるかには個人差もあるでしょうが、やはり「鰻を食べたなぁ!」という実感が強いのは、最も食べ慣れた調理法で供された鰻のときではないでしょうか。誤解を恐れずにいえば、関東生まれ関東育ちの僕が「ひつまぶし」を食べるときは、やはり「鰻」ではなく「ひつまぶし」という別のメニューを食べているような感覚に捉われます。

まぁ、どちらもとても美味しいので困ることは何もないのですが......。

こうして考えていくと鰻には不思議な形で「日常」と「非日常」が交錯していることに思い至ります。特別なときに食べる、という意味では「非日常」の代表格でありながら、その特別感を十分に味わうためには食べ慣れた「日常」の調理法が要求される。鰻には、相反する二つの要素が求められているという事実に気づかされます。うな重にはときどき、ご飯の下にもう一層、鰻とご飯の層があるような「豪華版」もありますが、これなどは「非日常」感を増すための工夫かもしれません。

......「日常」と「非日常」の交錯は、何も鰻に限られたことではないでしょう。論文を書き上げたり学会で発表したり、あるいは人目に分かるような形でなくとも、文献を読んでいて小さな発見のひとつでもあれば、それは研究者にとって小躍りしたくなるような大切な「非日常」だと思います。けれども、それは気の遠くなるような、時には退屈な「日常」に支えられてのみたどり着くことができる。「非日常」の喜びに気づくことができるためには、「日常」につぐ「日常」の連続を乗り越える必要がきっとあるのでしょう。

修論提出を鰻でお祝いできる日を迎えられるように(鰻が本当に美味しいのは、夏ではなく冬らしいです!)もうひと踏ん張り、頑張ろうと思います。(写真は2018年に食べた鰻でコレクションでした)