12月
19

南アフリカ・ケープタウン訪問記

作者: Watanabe Chihiro | 2016年12月19日Posted in: フィールドレビュー

みなさん、こんにちは。修士課程1年の渡辺千弘です。今回は研究から少し離れて、以前に足を運んだ南アフリカのケープタウンで観てきたことについて、お話ししたいと思います。

ヨーロッパからのバカンスを中心に、最近では世界有数の観光地としてすっかり定着したケープタウン。風光明媚な土地にはテーブルマウンテンや喜望峰など、豊かな自然を誇る景勝地が数多くあります。また、近郊に存在するワイナリー巡りや、少し足を伸ばせば体験できるサファリなども、手つかずの自然が残るアフリカならではの大きな魅力です。

s IMG 4558

他方で、南アフリカは日本に住む私たちにとって、比較的馴染みの薄い場所でもあります。アメリカやヨーロッパのことはすぐに思い浮かんだとしても、休暇を過ごすときにまず、南アフリカのことを思い浮かべる人は決して多くないでしょう。そして、そんな我々が南アフリカに持っているイメージといえばやはり「アパルトヘイトの国」ではないでしょうか。

南アフリカでは第二次大戦後の1948年、人種隔離を法制化するアパルトヘイトが確立し、その解消は1994年の全人種による総選挙実施を待たねばなりませんでした。その間、黒人はホームランドと呼ばれる、白人政権によって恣意的に設定された傀儡国家への集住を余儀なくされ、都市部での労働に従事する者は劣悪な生活環境の居住区への隔離、恒常的なパスの携帯を甘受する必要があったのです。

今日、南アフリカは三代目の黒人大統領を戴き、制度的な人種間の差別は既に見る影もありません。半世紀にわたる悲劇的な時代を経て、一見すると人種的な融和が達成されたかのようにすら、傍目には映ります。しかしながら、人種の問題にとって、その制度的な障壁は氷山の一角に過ぎません。人種的な断絶が長年にわたって土地の生活となり、文化となってきた以上、そこに生じる困難は今も喫緊の課題を数多く残しています。

その一例が、冒頭で述べたケープタウンの、テーブルマウンテンから望むことのできる景色にありました。名勝として観光客の足が途絶えることのないテーブルマウンテンからは、まさにケープタウンの街を一望することができます。ヨーロッパ風の港湾施設や整った街並み、そして乾燥したアフリカの大地には珍しく緑の溢れる通りの様子はとても美しいものです。湾内に見えるロベン島は、かつてかのネルソン・マンデラら政治犯が収監された場所であり、「負の遺産」とそうした景色が溶け合った様子は、困難な道のりを乗り越えて融和を達成した南アフリカの今日を象徴するようにさえ見えます。

s IMG 4571

「テーブルマウンテンからは、ケープタウンの全てが観られる......」

ロープウェイに乗って頂上へ辿りついたとき、図らずもそんな感慨に捉われました。しかしながらケープタウンには、その観光地化された頂上からは決して望むことのできない一角が存在したのです。カイエリッツァという名のその一角はタウンシップと呼ばれる居住区で、今も住民の大部分を黒人が占めています。そして、いささか乱暴な説明ではありますが、そこに住む人の多くは決して裕福とは言えない生活環境に置かれ、ケープタウンの高級住宅街からは隔絶された日常を送っているのです。

s DSC 7565

勿論、今日ではそうしたタウンシップもまた観光地のひとつとなり、居住区を巡るツアーなども多く開設されています。しかしながら、そこに存在する生活は決して観光客用に設えられた「見世物」ではなく、実在する格差としてケープタウンという土地に刻まれているのです。

ケープタウンの市街地には、第6地区と呼ばれる場所があります。いや、正確には「ありました」と言った方がよいのかもしれません。多様性を実現する地域として知られたその場所には、かつて黒人のほか、カラードと呼ばれるマレー系の混血、そしてリベラルな白人など多様な人種が混在していました。しかしながら今日、その場所には広漠とした空き地が広がるばかりです。1966年、アパルトヘイト政権によって「白人居住区」に定められた第6地区からは、その後1982年までに住民が一掃され、黒人の多くは先述したタウンシップへと移り住みました。アパルトヘイトの終了後、かつての住民たちによる帰還計画などが企図されましたが、今日に至るまで実現していません。

s IMG 4690

差別が権力性を帯びたとき、それまでに存在した日常生活や権利は、いとも簡単に踏みにじられてしまう。非常に陳腐ではありますが、僕にとってはそんな当たり前のことを強く感じたケープタウン滞在となりました。