長島でのドキュメンタリー制作

こんにちは、丹羽研M1の久野です。気づけばもう師走に入り、2016年が終わろうとしています。年末は毎年実家のある京都に帰省するのですが、上京してから早6年。気がつけば、人生の1/4を東京で過ごしています。


何かにつけて帰りたがっていた大学1,2年生の頃と違い、帰省するのが年々億劫になり、慣れ親しんだはずのふるさとに時折よそよそしさを感じるようになりました。それは昔気に入ってよく着ていたはずのワンピースが色褪せ古ぼけ、いつの間にか小さくなっているような寂しさに似ています。

かつて河原町通と蛸薬師通の辻に、丸善という大きな本屋がありました。4,5階建の古い建物には洋書や古書や高級文具が上品に並び、幼い頃よく母に連れられて来られた本のデパートです。
梶井基次郎が檸檬を置いて爆破しようと試みたこの本屋は、今から10年ほど前、確かに木っ端微塵に爆発してジャンカラに姿を変えました。横にあったハーゲンダッツも数年前に何処かへ行ってしまいました。脳内に描かれた地元の風景はチョークアートのように徐々に薄らいでゆき、そこに新たに濃い線を引くのをためらいます。

それはさておき、今年の8月、私は鹿児島県の北西にある小さな島、長島で映像制作のキャンプに参加しました。このキャンプは3泊4日で動画の取り方や編集の仕方を学び、島民の方を取材して長島を舞台にしたドキュメンタリーを制作するというもの。私を含むメンバー3人で作ったのは、『長島(ふるさと)なんてないとおもってました』という作品で、32年ぶりにふるさとである長島を訪れた男性を描いたものです。
連日の取材と徹夜の編集作業で最終日の朝になんとか完成したこの作品。嬉しいことに、島の方々を呼んで開かれた上映会にて町長賞を含む2つの賞を受賞することができました!
私たちが当初与えられたテーマから大きく外れ結果的にふるさとを描くことになったのは、偶然の出会いからでした。

長島の海と町が一望できる高台にて

長島の海と町が一望できる高台にて

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長島に着いた翌朝のこと。
町の人に長島の話を聞いて回っていた時、ひょんなことから洋菓子店を営むコダマさんに話を聞く機会を得た。
「長島には”花の50歳組”っていうのがあってね、50歳になった同級生らが集まって運動会に参加するんです。」
お店の美味しいお菓子を頂きながら、アルバムをパラパラめくる。そこには私の両親と変わらない年齢のおじさんおばさんが、楽しそうにリレーをしたり応援する様子が写っていた。
「でも中には連絡つかない人もいてね。数年前、やっと連絡先がわかった人にその運動会の写真を送ってあげたら、32年ぶりに帰ってきたの。その人ね、『もう俺にはもうふるさとなんてないって思ってた』ってねぇ、何度も何度もそう言うんですよ。」

俺にはもうふるさとなんてないー、その言葉は私の頭の中をぐるぐる回り、心は大きく渦巻いた。

その日の午後、私たちは32年ぶりに帰ってきたという例の男性を紹介された。日によく焼けた体格のいいその男性はアライさんといい、やっととれた有給休暇で1週間長島にいるという。私たちは挨拶もそこそこに、アライさんが少年時代遊んだ沢にでかけた。
刺すような夏の日差しの下、上流に向かって4人ぞろぞろと歩いて行く。
高校を出て関東で就職をしたこと、母を看取れなかったこと、借家を売って父を関東に連れてきたこと、働き詰めで長島を思い出す暇もなかったこと。三方からぷつぷつと湧いてくる疑問を、アライさんは丁寧にパチンパチンと割っていく。

「ここで沢蟹をよくとってねぇ、、あ!やっぱりいた!ほらここに、一発で見つけた!」
カメラ越しにみるアライさんは、10歳ぐらいの男の子にも見えた。

日がすっかり落ち暑さも幾分和らいだ頃、気持ちばかりのお酒とおつまみを携えて私たちは再びコダマ製菓店を訪れた。
その日はアライさんが島にいる最後の日で、同級生が集まり送別の飲み会が行われたのだ。私たちは図々しくもお宅にお邪魔し、コダマさんの手料理と島の焼酎に舌鼓をうちつつカメラを回した。

非常識なお願いをしたという思いがなかったわけではない、しかしそれでもなんとかして撮りたかった。
私はすっかりアライさんや島の人達に魅了されていて、彼の言うふるさとをもっと理解したいと思ったのだ。

「もうずっと音信不通でねぇ。だからアライがくるっちゅーてわかったら、みんな大騒ぎでなぁ。」
この一週間でなんと6回も飲み会が行われたという。へべれけになりながらアライさんを歓待する空間は、よそ者の大学生でさえも優しく包み込んだ。花の50歳組の集合写真を見ながら、目を細めてアライさんは言った。
「もうみんなから忘れられてると思ってたけど、俺にもふるさとがあったんだなぁ」

最終日、私たちは熱に浮かされたように一心に動画を見返し、構成を練り、編集し、ナレーションを吹き込んだ。3日かけて撮りためた素材。これを5分間の作品に仕上げる上で、泣く泣くカットせざるを得ない部分も多々あり私たちを困らせた。

そしてこの作品を作っているさなか、アライさんは再び島をあとにし帰路についた。

さて、この作品の構成を練る際に特に悩んだ部分がある。それはオープニングとエンディングの挿入した島内外を繋ぐ橋の風景だ。最終的にOPは島外から島内に、EDは島内から島外に向かって走る助手席から見える橋の風景を選んだが、構成を講師の方に見せた時、これでは島を捨て去ってしまうようなニュアンスが出るとの指摘を受けた。

ふるさとを描くことに決めた時、私は心温まるほっこりムービーをつくりたいと考えていた。やっぱふるさとはいいよね、田舎万歳!みたいなものだ。
しかし取材を重ねるうちに気がついたことがある。それは、ふるさとはたとえ人生の出発点であろうと安住の地であるとは限らないということだ。
アライさんの同級生は皆、彼が再びこの島で生活することを望んでいた。アライさん自身も島に戻りたい気持ちはあったと思う。
しかし、仕事も愛する家族もふるさとから遠く離れた場所で自分を待っている。
アライさんの口から出た「家族を放っとく訳にいかないから」という言葉はあまりにリアルで、永住しないのかと軽く聞いたことを恥じ入った。
私たちが見た島の生活はアライさんにとっては非日常で、32年を経たふるさとは「これを逃すともう一生帰ってこれないかもしれない」ほどに日々の営みから遠く離れた地にあったのだ。

長島と鹿児島本当をつなぐ瀬戸の黒大橋

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私の生まれ育った京都は、新幹線で片道2時間半の距離にあります。なんだかんだ定期的に帰省しており、ふるさとというには少し仰々しい気もします。しかし、残念ながら生活の軸は完全に東京にシフトしました。京都で生活するのは、別の水槽に入れられた金魚のように水温に身をならすのに時間がかかります。

気づけば上京してからずっと、ふるさとが自分にフレンドリーで変わらない存在であって欲しいと願っていました。スマート珈琲店は永遠に潰れないで欲しいし京劇も三条の不二家のペコちゃんも帰ってきて欲しい。しかし時の流れは残酷です。実家の犬はいつの間にか10歳になり、いつも私の帰りを心待ちにしてくれていた祖母はもういません。お酒を飲めるようになり、標準語が板につき、東京で大事なものがたくさん出来ました。
”ふるさとは遠きにありて思うもの そして悲しくうたふもの” 中3の時は「ふーん」としか思わなかった室生犀星の詩にいつしか共感を覚えるようになりました。

せっかくなので、出来上がった作品をのせます。
長島(ふるさと)は、ないとおもってました
この動画を改めて見て、変わってしまったのはワンピースのサイズではなく自分なのかもしれないと思わされました。2016年の長島でのひと夏の経験は、わたしをまた少し大人にしたのかもしれません。