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「ヘイト本」と表現の自由

作者: Watanabe Chihiro | 2016年9月20日Posted in: フィールドレビュー

今回のフィールドレビューは、修士課程の渡辺千弘が担当します。自己紹介も兼ねて、今回は私の研究テーマに関連するイベントに参加してきた際の話をさせて頂きます。

去る7月29日、出版労連の主催で「『ヘイト本』と表現の自由」というテーマのシンポジウムが開かれました。私自身の研究関心が、こうした「ヘイト本」などの差別的な出版物が生まれる過程にあり、また現在も研究に並行して編集者としての業務を継続していることから、現場の諸先輩方がこのテーマをどのように捉えているのか、高い関心があったのです。

そもそも皆さんは「ヘイト本」と言われて、すぐに具体的なイメージが浮かぶでしょうか。あるいは、日本国内におけるヘイトスピーチに関連した出版物、と言われればより具体性を持って想起されるかもしれません。細かな部分ではいくつかに解釈が分かれるかとも思いますが、ここで日本における近年のヘイトスピーチ、ヘイト本の歴史を概観しておくと、事の発端は2006年に在特会という団体が設立されたことにあります。彼らが起こした京都朝鮮学校襲撃事件や、それに続く「お散歩」と称された差別的・排外主義的な街宣活動が、最近の日本で起きたヘイトスピーチ・ヘイトデモの主立ったものと言えるでしょう。そして、そうした活動が勢いを得、雑誌や書籍と言った出版物の形を取ったのが「ヘイト本」です。

今回のシンポジウムは勿論、ヘイトスピーチや「ヘイト本」の是非を再考するような趣旨のものではありませんでした。それらを学問の対象として考えるとき、そこでは勿論、差別的な言辞や出版物が持つそもそもの価値基準や社会的な意味に思いを及ぼす必要があると思います(私が研究を進めて行く上でも、当然そうした部分を避けて通ることはできません)。しかしながら現場の編集者や書店員にとっては、恐らく「ヘイト本」の是非を議論する事よりはむしろ、ひとまずそれらの悪辣さを認める立場に軸足を置いた上で、如何にそれらと対峙していくのかという観点が肝要なのではないでしょうか。

そしてシンポジウムでも、恐らくはそうした観点に立脚し、現役の書店員(店長)、編集者(大手出版社)、編集者(反ヘイト活動を行う出版関係者)、弁護士と、それぞれ異なる立場でヘイトの現場に向き合う4名をパネリストに迎え、反ヘイトと「表現の自由」の担保はどのような形で両立し得るのかが議論されました。

私にとって非常に興味深かったのは、編集者としての自分自身がまさに日々直面しているジレンマが、ほぼそのままの形でパネリストの方々の意見対立に直結していたことです。

パネリストである大手出版社の編集者は「出版が言論の場である以上、差別的な言説にも言論によって対抗していくべきだ。私は、出版がその力を持ち得ないくらいに弱体化しているとは思っていないし、そういう意味では出版の未来を楽観的に捉えている」という趣旨のことを言っていました。他方、それに対する反ヘイト活動を行う編集者の意見は、「ヘイトを認めてしまうことで、その最も大切な『言論の自由』がヘイトの対象となるマイノリティから奪われてしまうのだ」というものです。

個人的な感想を述べれば、どちらも一理あるというのが率直な印象です。ヘイトを完全に放置することは必然的に「マイノリティの言論の自由」を蝕むことに繋がりますし、他方で、大手出版社の編集者が発言した内容の延長線上にある「だから、ヘイトを規制によって排除するのではなく、言論によって対抗すべきだ」という意見には、「言論の自由」という概念を考える上での根本的な問題が横たわっています。

パネリストであった弁護士の発言にも多く拠りますが、規制には必ず「濫用」の可能性が付随します。そういう意味で、あるいはメディアの反権力的な色彩を最も体現しやすい出版が、そうした規制に対して慎重になるのは当然の帰結と言えるでしょう。しかしながら、やや比喩的な表現になってしまいますが、完全な「自由市場」は結果的に抗いがたい格差や権力関係を生み出します。そう考えたとき、それが言論という場であっても最低限度の規制は必要であり、それらを行う主体が何者であるのかという点も含めて、少なくとも不断の議論を積み重ねる必要があるのではないでしょうか。

その具体的な方法論については、今後、考察を深めていかねばなりませんが、私自身の研究もまた、そうしたプロセスの一助となることを願いつつ、今回は筆を置きたいと思います。